北星学園大学への「言論テロ」と慰安婦問題

 「このころから、北星学園大学にも、いやがらせ電話や、『植村をやめさせろ』というメールが送られてくるようになった。五月末には脅迫状が送られてくるようになってきた。
 『あの朝日新聞記者=捏造朝日記者の植村隆を講師として雇っているそうだな。売国奴国賊の。
 植村の居場所を突き止めて、なぶり殺してやる。すぐに辞めさせろ。
 やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる』
 七月末にも脅迫状が届いた。九月には、『まだ働いているのか。爆破してやる』という脅迫電話があった。>

 月刊誌「世界2月号」(岩波書店)に、「私は闘う 不当なバッシングには屈しない」というタイトルで植村氏は書いている。八月末までにこのような大学への脅迫メールの数は807に上ったという。植村隆氏に加えられた「言論テロ」とも言うべき脅迫のてんまつが自身の筆でつづられている。
 朝日新聞記者であった植村隆氏は、2012年度から札幌の北星学園大学で非常勤講師をつとめていた。2013年には神戸の松蔭女子学院大学の教授に公募で選ばれていた。そこにバッシングが起こった。バッシングの材料は1991年の朝日新聞記事だった。ソウル在住の元「慰安婦」金学順さんの証言を植村氏は記事にしていた。「テロ」はそれを標的にした。
 「記事は捏造である」「日本の国際イメージを損なった」、週刊誌「週刊文春」が植村攻撃を始め、それが朝日新聞バッシングとなり、植村氏への「言論テロ」が拡大した。大学への脅迫によって、学生への影響を危惧した松蔭女子学院大学は植村氏の就任をご破算とする。
週刊文春の報道で、大学に脅迫が来ている。過激な団体から攻撃を受け、学生が巻き込まれるような事態は避けたい。理事会は植村氏の就任を難しいと判断した。」
 これが松蔭女子学院のとった処置だった。つづいてネットでの植村攻撃が始まる。「世界」の記事はこうである。

 <私の家族も攻撃の対象となった。娘の写真もネットで公開され、誹謗中傷の言葉があふれている。
 『こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない』
と書かれたコメントを読んで、胸が痛くなった。妻は韓国人だ。ヘイトスピーチめいた書き込みも目立つ。‥‥
 朝日新聞は8月5日付の慰安婦問題の検証記事で、私の記事について『記事に事実のねじ曲げない』と『捏造』でないことを確認した。しかし、同じ紙面で故・吉田清治氏の証言に基づく記事を取り消したため、朝日に対するすさまじいバッシングが起きた。>

 吉田清治氏の証言は捏造であった。しかし「慰安婦」問題の存在事実は確かである。だが、意図をもった「言論テロ」はそんなことは関係無しだった。
 家族にまで攻撃が及ぶとなれば、恐怖感は尋常ではないだろう。「テロ」はこのように相手の思想だけでなく生活も生命も暴力でたたきつぶして、自分の思いを通そうとする。なぜ攻撃が続くのか、植村氏は書いている。

 <私が朝日新聞の記者であること、署名入りで、名乗りでた第一号の『慰安婦』の存在を報じたこと、朝日新聞リベラリズム歴史認識に対する嫌悪、妻が韓国人であること、義母が太平洋戦争犠牲者遺族会の幹部であること、それらこそ私が標的にされている理由だろう。私を攻撃することで、朝日新聞全体を委縮させよう、リベラルなジャーナリズムを委縮させようとするねらいがあるのではないか。>

 このような異常な事態に危機感を抱いた人たちの動きがここから起こる。札幌の女性が大学へ応援メールを送る運動を始めた。それが全国に広がる。応援メールは、脅迫メールを上回るようになる。市民団体「負けるな北星!の会」が発足する。北星学園大学の教職員有志が「大学自治を守る」活動に立ち上がり、大学院生もグループを作る。380人の弁護士が、札幌地検に告発を行う。アメリカ、韓国からメディアが取材に来る。
 12月、植村氏の北星学園大学との契約更新が発表された。大学が脅迫に打ち勝った瞬間だった。

 ぼくはこの事件から、あの事件を思い起こす。1987年、朝日新聞阪神支局を「赤報隊」を名乗る男が襲撃し、記者を銃殺するというテロ事件が起こった。犯人はつかまらず、事件は解決しなかった。あのとき殺された小尻記者は植村氏の同期だったという。「言論テロ」は、容易に「肉体へのテロ」に発展する危険性がある。
 今、植村問題に対する裁判が進められている。

 1999年に読売新聞社は「20世紀 どんな時代だったのか 戦争編 日本の戦争」という大部の書を編集して出版している。そこに「戦争と性暴力 遅すぎた裁き」というタイトルの記事がある。

<戦争や武力紛争の際に繰り返される「女性への性暴力」。第二次世界大戦でも戦場や占領地で相次いだが、ほとんど不問に付された。しかし、国際社会では、1990年代になって「女性への重大な人権侵害」との認識が高まってきた。旧ユーゴスラビアルワンダの内戦では、集団レイプや大量虐殺を非難する世論がわき起こり、国連は国際法廷を開設し、性暴力を「人道に対する罪」として裁いている。98年7月には、今世紀の懸案だった常設の「国際刑事裁判所」の設立が決まった。>
このリードの後に、次の記事が続く。

 <インドネシアジャカルタの近郊の村で、旧日本軍の「イアンフ」だったと名乗り出たスリウィヤンティさん(70)に会った。日本政府に補償を求める準備を進めていた。
 1942年、父が日本軍に捕らえられている間に、複数の兵士に自宅前で襲われた。14歳、船でスマトラ島、ビリトン島に連行され、将校の宿舎に監禁された。
「毎晩、ボスのほかに、二、三人の相手をさせられた。疲れて眠りそうになると、平手打ちをされた。刀を抜いて脅されたりもした。」(スリウィヤンティさん証言)
‥‥
 金学順さん(97年、73歳で死去)が、「従軍慰安婦」として韓国内で初めて名乗り出たのは91年。その年の十二月、韓国在住の同じ境遇の女性らと、日本政府に謝罪と補償を求める訴訟を東京地裁に起こした。それを契機に、フィリピンや中国などからも声が上がり、元「慰安婦」による訴訟は全国で七件、98年までに二件の判決が出ている。>

この記事の後に、戦争末期、ソ連兵による旧「満州」の日本人女性への性暴力、ドイツベルリン陥落時のソ連兵によるドイツ人女性への性暴力、ポーランドに侵攻したドイツ軍兵士によるユダヤ人女性への性暴力、強制収容所で行われた日常的な性暴力、そして日本敗戦後の米軍兵士による日本女性への性暴力などの事例が記されている。

 朝鮮半島、中国、東南アジアなど、日本の侵略した地域で、日本軍は何をしたか。侵された人たちの記憶は消すことはできない。黙って耐えてきた人々の心と体に残る傷、苦悩と痛みと恥辱は絶えずうずいている。その傷口に、今になって短刀を突き刺すような人間がこの国の体制の勢いに乗って現れてきている。