焼岳・大正池

 ソウゾウ君が、畑のネギを全部掘り上げてくると言って立ち寄っていった。彼はぼくの借りている畑の一部を使っている。昨年熊本からこちらにきて、造園と土木の会社に就職した。
 最近、大正池の浚渫(しゅんせつ)工事の仕事をしているという。上高地大正池だ。
 「へえー、大正池の浚渫なあ。大正池はずっと昔から浚渫しているなあ」
 「船で池の底をさらえ、ぼくはその土砂をトラックに積んでいます」
 「ユンボで?」
 「はい、ユンボを使って」
 「大正池まで入るのは、これから雪で大変だなあ。」
 「朝、道路の除雪しなければいけないです」
 「昔、冬の穂高に入るのに、島島から歩いて釜トンネル抜けて歩いたことがあったなあ。釜トンネルの中が凍って、出口は雪でふさがって。トンネル出たところ、右から雪崩がよく出るんやわ」
 ソウゾウ君はユンボが使える。いくつか特殊車両の運転免許を取得している。大正池は浚渫しても浚渫しても、焼岳からの火山灰が流れ込み、堆積する。
 焼岳は1915(大正4年)の噴火で、溶岩が梓川に流れ下り、川を堰きとめて、大正池ができた。その頃は立ち木がそのまま池のなかに残って、大正池独特の景観が生まれた。
 1962にはまた大規模な噴火があり、火山灰があたりを埋め、梓川が堰き止められて池の面積が小さくなった。浚渫工事は止むことなく続いた。

 1972年に、「非行」生徒のグループを引き連れて、乗鞍高原の林間学舎の施設を借り、合宿したことがあった。9月から10月にかけて、40日間にわたる合宿だった。それはぼくの勤務していた中学校独自の企画で、教育委員会が特別に認めたものであった。「非行」生徒のグループは、シンナー吸引、暴力事件などを多発させていた。教師たちは、夏休みも、平日も、深夜に及ぶ巡視を行なうも「非行」は止まない。このグループに対する指導をどうすればいいのか、「非行」の原因の根底に部落差別があった。討議を重ねたあげくの苦肉の策は、彼らをあやつるボス的存在の青年を含めて、居住地域から引き離し、自然のなかで生活を立ち直らせるという案だった。ぼくはもう一人の教師と二人で、その合宿の舞台を信州に絞り、候補地を探しに出た。白馬村八千穂村、乗鞍高原野辺山高原をめぐり、その下見の結果、乗鞍高原にあった梓川村営林間学舎の施設を借りることにした。
 複数の教員と校区の部落の大人数名が引率した生徒たちは、マイクロバスで乗鞍高原に入った。高原はもう秋の気配だった。野外活動施設は古い木造校舎のたたずまいだった。建物の前を清流が流れていた。
 食事は自炊、前の小川で米を洗った。午前中は健康回復と生活リズムを取り戻すために広場でソフトボールをする。体が戻ってきたところで、全行程歩いて乗鞍岳に登った。歩いて白骨温泉へも行った。麓の村で農体験の稲刈りもした。管理人の田んぼだった。夜は語り合う。その合宿のなかに、西穂高岳を敢行した。
 マイクロバスで上高地に入り、上高地から西穂高岳を目指した。しかし、生徒たちの状況と山の険しさから判断して独漂で引き返し焼岳に向かう。焼岳は10年前の噴火の名残がまだ残っていた。焼岳鞍部で状況を判断し上高地に下った。火山灰地の流出跡は、峻険な谷を形作っていた。大地がばっくり裂けて、巨大な口をあけていた。生徒たちはよく付いて来た。よく歩いた。人間の小ささ、自然の底知れぬ恐ろしさを見る登山だった。