昭和18年、戦時の槍ヶ岳登頂


日本野鳥の会創始者であり詩人であった中西悟堂は、前年に続く昭和18年(1943年)7月には烏帽子岳から槍ヶ岳を経て大滝山まで縦走している。
戦況は悪化の一途をたどり、日本は次第に追いこまれていた。
昭和17年4月、米軍機は、京浜、名古屋、四日市、神戸等を初空襲した。
18年、ジャズなど英米の楽曲の演奏が禁止になった。
戦線では「撤退」・「玉砕」が相次ぐ。


昭和18年(1943)の戦況。

ニューギニア・ブナの日本軍玉砕」
「日本軍、ガタルカナル島から撤退」
連合艦隊指令長官海軍大将・山本五十六がソロモン群島で戦死」
アメリカ潜水艦、北海道幌別を砲撃」
アメリカ軍、アッツ島に上陸」
「日本軍、キスカ島から撤退」
「女子挺身隊が誕生」
上野動物園の猛獣処分」
「10月、学徒出陣始まる」


「撃ちてしやまん」、
戦意高揚のプロパガンダが国に溢れた。
そういう時世に、山に登る人がおり、山小屋は開いて、登山者を泊めていた。
やがて兵士となって前線に出て行く学生のなかには、別れの心を抱いて山に登る人もいた。


中西悟堂は、当時48歳であった。
彼はいったいその「非常時」に、どのような考えを持って山に登っていたのだろう。
声高に戦争批判を言える時代ではなかった。
1943年の記録のなかで、彼はこんなことを書いている。
槍ヶ岳での360度の大眺望を描きながらの思索である。
午前六時前、悟堂の一行は槍ヶ岳頂上に立った。


 「すでに雲海はほどけていた。あるいは雲の肩掛けを着け、あるいは雲のうすものをまとい、あるいは雲の帯をしめ、あるいは雲のはかまをはいた山々が、
神殿のように神々しく、厖大な一つの交響曲となって、国土の粋をあつめた一大叙事詩を歌いつれる蒼古の大観!
祖国の人間的治乱をよそに、五箇岩むらの水上とおく、雲の上高く、斎(いつ)かれるあまたの岳の大いなる涼しさと威風よ!
 これこそ我が国土の骨組みであった。
 いつも民とともにある久遠の座であった。
 日が射す。鳴りわたるばかりに峰々が日にきらめく。太古さながらの大きい朝である。
 長之助草やムカゴトラノオや、チングルマヨツバシオガマの花々に飾られ、イワヒバリがさえずりうたい、高山蝶が舞い、アマツバメの群れがチュリリリリリ、チュリリリリリの声を空からふりまく。
ここ槍の穂の清澄な高らかさ!


      千年の天をぬいて、
      いまもなお峨々たる孤独
      身に無為の霧をまとい
      夜は星をともして
      静寂と寂莫を生きぬくもの  
      冬は冥々と雪嵐にこもり
      ときに気流の渦に立って
      なおへいとして純潔を生き抜くもの!
      涼やかなこの天の穂よ!


 わが中つ国の雲表に在って群山を統べ、恒久の天に向かって、たとえば西欧におけるあのカトリックの尖塔のように、
希望の穂を立てる円錐の頂点!
 ここに私は下界千年の紛糾を超えた祖国の一つの象徴を見るのであった。」


この文章からただよってくるもの、
平和とは何か、日本の国とは何か、人間とは何か、
亡国は、「祖国の人間的治乱」によっておこる、
「下界千年の紛糾を超えた祖国の一つの象徴」は、厳然として存在する。
我らいかに生きるべきか。