戦時の中西悟堂、槍ヶ岳に登る

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 1943年というと、敗戦の二年前。日本海軍は敗北を重ねて、南の島の日本の駐屯軍も一般の人も玉砕を始めていた。学生も動員されて戦場に向かった。翌年、日本に併合されていた朝鮮にも徴兵制がしかれ、コリアンが日本兵として動員された。そして沖縄戦に突入していく。

 このような時代に、北アルプスに登れば、どうなるだろう。非国民と言われて、ひどい目にあわされるのではないか。一億火の玉というのに、なにごとかと。

 

 日本野鳥の会中西悟堂は登っていた。夏七月、悟堂は縦走した。烏帽子岳から槍ヶ岳まで、出会った小鳥の名前を記録した。

 登山者のほとんどいない時世に、山小屋を開けている人がいた。小屋番は一人、彼は悟道に粥一椀と梅干一つを朝食に出してくれた。

 悟堂は手帳に記した。。

 「塵寰(じんかん)隔絶の天然の園であった。風光はあくまで明るく、うねうねと続くザラ場には、チョウノスケクサや、コマクサやイワギキョウが咲き、イワツメグサは所きらわず風にそよぎ、砕石が白光を放ち、起伏のままにほそぼそとつらなる縦走路が、目もはるかに私たちを天の一角へとみちびいてくれる。風化した礫砂地にはビンズイがさえずっていた。岩場にはイワヒバリが岩を伝っていた。はい松があればライチョウがいた。蝶も舞いつれていた。私は手帳に詩句を書き留め始めた。

 純なものを、はかなくて、もろいものを、

美しいものを、天然の律にしたがうものを、

 拾い集める、すなどりびと。

 

 私は痛いほどの喜悦の心で眺めた。

 ああ、それらが膨大な一つの交響曲となって、国土の粋をあつめた一大叙事詩を歌いつれる蒼古の大観! 祖国の人間的治乱をよそに、五百箇岩群(いおついわむら)の水上とおく、雲の上高く斎(いつ)かれるあまたの岳の大いなる涼しさと威風よ! これこそ我が国土の骨組みであった。いつも民とともにある久遠の座であった。」

 

 悟堂は人生を通じて、生命体を破壊する文明、人間の精神を破滅させる文明を厳しく批判した。戦争に狂奔する政府軍部は度し難い。

 そして日本は破滅した。