「国民運動」が動かないのはなぜなのか



ことここに至って、なぜ日本で反原発脱原発の、国を揺るがす大衆的な国民運動が起こらないのだろう。


原発」という語をはじめて聞いたのは1970年代に入ってからのこと、教職員組合主催の教育研究会での議論を記憶している。
原発はあぶない、原子力の平和利用なんてまやかしだ、そういう議論が若い教師たちの口から発せられていた。
原発? そんな略語を使うな。原子力発電とちゃんと言うべきだ。」
私は、この略語に中身のない空虚さを感じ、流行語のように使う風潮が気に入らなかった。
初期の段階の「原発」討議は科学的な知識も不足していて、まだまだ未熟だった。


原発」とは何か、国民の生活ではほとんど話題にならないまま、原発立地の市町村の利害を中心にした議論で建設計画が進行する。
1970年、71年、美浜、福島に原子力発電所が造られ、発電を開始した。
やがて発電所見学に訪れた人たちが、なにやらプレゼントをもらったり、歓待されたりするといううわさが聞えてくるようになった。
1979年、アメリカのスリーマイル島で事故が起こった。
原発反対運動に具体的な危機意識が加わるようになった。
1986年、チェルノブイリ事故。
高木仁三郎氏は、人類はとうとうパンドラの箱を開けてしまった、ありとあらゆる禍が飛び出してくる、この箱のふたを閉めることができるだろうか、と書いた。
しかし、ヨーロッパでは自然エネルギーを取り入れる政策が進んだにもかかわらず、日本の政治は原発推進にひた走った。
原発脱原発は国民運動へと広がらず、かつて国民運動を巻き起こし、担ってきた労働運動、環境運動、学生運動などの大衆運動が鳴りを潜めてしまった。
1999年、茨城県東海村、ウラン加工工場で臨界事故、犠牲者出る。
そうして2011のフクシマが起こった。


飯田哲也氏(環境エネルギー政策研究所所長)が、
「これほどの事故を目の当たりにしながらも、なぜデタラメな言説がまかりとおるのか。
日本の知識人総体の中心にぽっかり空いている『知の空洞』が問題の本質なのではないか。」
と、日本のエネルギー政策失敗の本質を書いている。
「北欧では70年代、ドイツでも80年代に乗り越えてきた原子力論争を、日本は『国策』の名のもとに避けて通り、いまだに消化していない。
米国や英国も十分に消化してきたとは言いがたいが、少なくとも経済合理性からの議論は経ているのに対して、日本はそれも避けてきた。」
経済発展至上主義と結びついた「知識人総体の知の空洞化」と、現実を見る「リアリティの欠如」を飯田氏は指摘している。(「朝日ジャーナル」緊急増刊号)



この危機に、教職員組合は何をしているのか、自治労働組合はどうしているのか。
「子どもを救う」「子どもを守る」、その先頭に立って献身的に運動する人たちが、労働運動、教育運動のなかにかつていた。
今もいるなずだ。
その人たちは、何をしているのだろう。
「福島の子どもたちを放射能から守る」活動のぼくの苦い挫折、その後の無力感をかみしめる反省の中で、
自立した教師たちよ、どうしているのか、自治体職員は何を考えているのか、と思う。
「知の空洞化」は、「知的大衆運動の空洞化」でもある。
政治家への不信感が渦まいている。
にもかかわらず、国民運動が組織されないのはなぜなのか。