セミが鳴いていた


わずか5分ほど、田園地帯から車で上ってきただけなのに、世界はすっかり変わっていた。
蝉が鳴いている。森の中から、たくさんの蝉の声が降ってくる。
福島の子どもキャンプに、6日間部屋を予約してあったから、社会福祉協議会の樋口事務局長はすでに、そのキャンセルとお詫びに来訪してくださっていた。
高々と天に伸びる赤松と落葉松の森に囲まれた啼鳥山荘は、ひっそりとして人の気配がない。
車が一台止まっていた。声をかけると、管理をしている百瀬さんがフロントの中から出てこられた。
「挨拶にまいりました。このたびはたいへんご迷惑をおかけしました。」
「いやいや、事務局長さんから聞いていますよ。いいですよ。いいですよ。」
百瀬さんは笑顔で、応じてくださった。予約に来た日も、百瀬さんは笑顔で山荘の各部屋を案内して、丁寧に説明してくださったが、今日もそのスタイルは変わらなかった。


「蝉が鳴いていますね。」
「いやあ、朝からやかましいくらいですよ。」
「なんという蝉ですかね。」
「名前は知りませんが、こんな小さい蝉でね。」
百瀬さんは、自分の小指の第一関節をさして見せた。
「へえー、そんな小さい蝉が、あんな大きな声でなくんですねえ。」
「ちょっと見てみますか。」
百瀬さんは、玄関からすたすた出て行って、庭の鉢植えの山野草の辺りを探し始めた。
「これこれ」
てのひらに、蝉の抜け殻があった。
「ほー、これは小さいですねえ。」
わずか2センチほどの、吹けば飛ぶような小さな抜け殻だった。
小さな蝉たちは、短い命を今を盛りと鳴いている。その合間に、ウグイスの鳴き声が響き渡る。
そのとき、数メートル離れたところの植え込みの茂みが動いた。
何かいるな、見ると猿だ。
「猿がいますよ。」
「ここでは毎日来ます。危害を及ぼさないから、大丈夫です。木の実を食べているんです。」
「かわいいですね。」
まったく人を恐れず、人間が横で会話しているのも気にならない様子だった。
猿はとうとう植え込みの上に座り、紅い顔をこちらに向けたまま実を食べている。
しばらく、そのままにして、こちらは動物談義をしていた。
機を見計らって百瀬さんは、猿に声をかけた。
「樹が傷むよ。もうやめよ。」
近づいてパンパンと手拍子をした。
それでも立ち去らない。
腕を振って、もうあっちへ行きな、と言われて、やっと猿は木から降りて建物の裏のほうへ立ち去った。そこにもう一頭の猿がいた。
二頭は連れ立って森に戻っていった。
「また、今度こういう計画がありましたら、よろしくお願いします。」
「いや、こちらこそ、よろしくお願いいます。」


夏休み、ここは子どもたちの世界になる。
森の気が子どもたちを包み込み、子どもたちの歓声が響く。
ああ、このしっとりした香しい空気、久しぶりに吸い込む山の気だ。
山とも長らくご無沙汰していた。もどっていこう、山へ。
あの稜線のハイマツの匂う気の中へ。