これから生まれ出てくる人々


















論壇時評(朝日、5・26)のなかで、作家・高橋源一郎の書いていることが、ぴぴっと頭に反応した。
「非正規の思考」。
東日本の大震災と福島原発の事故は、それを知った多くの被災地以外の人たちの精神の状態をも変えていった。
アメリカにいて情報を知った加藤典洋は、「これまでに経験したことのない、未知の、自責の気持ちもまじった悲哀の感情」を抱いた。
高橋源一郎自身も、強い自責に似た思いと感情を心に抱いた。
「自責の念」。
原発問題を、心の中では気にかけていたのに、結局何もしてこなかった。そのツケは、もっと若い誰かに回されるのだ。」


自民党に所属しながら、自民党の体制に反する思考をも率直に表明してきた河野太郎もまた、この「自責の念」が根底にある。
河野は、これまで自分の党が政権をになって築き上げてきた原子力の政策を暴き、再生可能な自然エネルギーに変えよと主張する。
これまでもこうした動きをしてきた人たちはいた。しかし、うねりに抗するもの、体制を否定するものとして、その人たちは疎外の対象でしかなかった。
いま、「自責の念」を覚える人たちは、この「大震災」のなかで亡くなっていった人たちの声を聞く。
これまでたどってきた人類の文明の道は、破滅に至る道ではないかと。


この災害だけではない。
すべての政治の動き、社会の動きに関して、
「これはおかしいのではないか、これはまちがっているのではないか」、
そう自分の心が小さな声でささやくことがある。
しかし、世間では、「べつにおかしくはない」が当たり前となっている。
そうすると、人はそう思う自分の心の動きに正直に向き合わないで、体制的な考えに流されていくことが日常化する。
そして結局傍観する。
「えらい人がそう言うのだから」「専門の人がそうするのだから」「みんながそうしているのだから」、
任せておけばいい。くちばしを挟まない。世間の常識に逆らうな。
その心の動きに対して、加藤典洋が考えたことは、「これから生まれ出てくる人々」、すなわち子孫をこの問題の関係者として招致せよということだった。


「すべて自分の頭で考える。アマチュアの、下手の横好きに似たやり方だが、いわゆる正規の思考、専門家のやり方をチェックするには、こうしたアマチュアの関心、非正規の思考態度以外にはない」。


十年後、百年後、さらにもっと先に生まれてくる人たちにとって、この日本、この信州、この地球は、美しい豊かな存在であってくれているだろうか。


アジア太平洋戦争の開戦時、1931年の満州事変のとき、1937年の日中戦争のとき、1941年日米開戦のとき、それぞれ未来を予感して戦慄を覚えた人たちがいた。
多くの国民が、高揚しているときに、「これから恐ろしいことが起こる」と予感した人がいた。だが、「正規の思考」は戦争の遂行であった。
「非正規の思考」の持ち主は拘留され殺された。
漁村の猫が、つぎつぎに踊り狂って死んでいき、やがて人間が死んでいった水俣で、何が始まるのか予感した人たちがいた。国と大資本は、「正規の思考」によって水俣病患者を封じ込めた。
「非正規」の「反公害の思考」は被害者の漁村の中から生まれた。
そしてそれは思想となった。


「すべて自分の頭で考える。アマチュアの自分の頭で考える。」
「異見に聞き耳を立てる。異論を傾聴する。」
「そこで声を発する。」


今の子どもたちのことを考える。
十年後の子どもたちを想像する。
五十年後の子どもたちを考える。


そうして何をなすべきか。