セミパラチンスク核実験場は伝える

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 高橋源一郎氏の、次の文章を読んだ。

 

 「何度か行った場所があるし、初めて行く場所もある。わたしは、福島と深い関わりがあるわけではない。少額の寄付をして、ある小さなプロジェクトを継続している。それがすべてで、わたしなどよりずっと深く福島に関わった人たちには敬愛の念しかない。

 なぜ福島へ行くのか、と訊(き)かれても、答えに窮する。けれども、やはりその季節になると出かけて、考える。不思議なのだが、そこで考えるのは、目の前の風景とは関係のないことが多い。その現場で考えることと、戻って考えることもちがう。わたしには大切な時間だ。

 『帰還困難区域』の解除に向けて、建物の解体が進む町で、住居跡を訪ねて来た方と少しお話をした。結局ここには戻らないだろうとその方はおっしゃった。それから少し、そのあたりを歩いた。もう10年以上放置された店舗や住宅は、荒れ果て、壊れていた。その瞬間、少し前に見た、ウクライナの映像を思い出した。そのときは、それだけのことだった。考えたのは、帰宅して後のことだ。

 3月11日という日付は、わたしたち日本人にとって特別なものになった。8月15日が、そうであるように。

 『2月24日』。ロシアがウクライナに侵攻した日が、そんな特別な日付になった人たちがいる。ウクライナの人たちはもちろん、ロシアの人たちもまた、そうだ。そんなことをずっと考えていた。そして、戦争が始まってから、それぞれの国の作家たちが紡ぎ、発していることばを、丹念に探し、ずっと読んでいる。」

 

 ぼくは本棚から一冊の分厚い本を出してきた。

 「20世紀 どんな世紀だったのか 戦争偏」(1999年読売新聞社)。

 そこに、次のような取材記事がある。記事は、カザフスタンセミパラチンスク核実験場の現場をつたえる。

 

 「今はヒツジや牛がのんびり草をはむ。だが、1991年に閉鎖されるまで、ここではソ連の数百回の核実験が行われた。足を踏み入れると、放射線測定器の数値がたちまち振り切れた。核実験には、千三百頭の動物が配置された。実験での被ばく者は120万人、後遺症で今も苦しんでいる。実験場近くの村では、毎日ガンで死ぬ人がいる。」

 

 ソ連時代の核実験の被害は今も続いている。ソ連時代の核実験からロシアの政治家、国民は何を学んだのか。今回の侵略でもプーチンは核をちらつかせ、権力者たちは、ウクライナ側の報道は自作自演だ、と言う。