夏鳥がやってきた

朝、カッコーが鳴いていた。
今年初めて聴くたった一羽、小雨そぼ降るなか、声は厳さんの家近くだ。
カッコーはどこから、どのように渡ってくるのか、よくわからない。
南の国からやってくるらしいが、渡りの姿を見ることがあまりないという。
カッコーの声は遠くまでよく響く。オスがメスを呼ぶ声を響かせるのは、この時期だけだ。
他の鳥に託卵して、子育てしてもらい、夏の本番になると姿を消すカッコー。


初夏になると、いろんな夏鳥がやってくる。
この安曇野に移ってきて、まだその声を聞いたことがないのはツツドリ
大阪と奈良の県境にある金剛山では、よくツツドリが鳴いていた。長大な南尾根を縦走していると、ポポポポ、ポポポポポ、と短く断続する声が響いてくる。
一方の端が節の竹筒に唇を当てて音を鳴らすような、そんな鳴き声が、むせかえる新緑と山ツツジの花の尾根を越えてくるのを聞くと、
いったいどこからその声が来るのかと、空の遠くの白雲を見やるのだが、姿を見たことがなかった。ツツドリの声は、いつも彼岸から来る声のように思われた。
ツツドリも自分で雛を育てず、他の鳥の巣に卵を産んで、子育てしてもらう。


不思議な声の印象が強いもうひとつの鳥はアオバトだ。
大和から紀州にまたがる大峰山系の山上ガ岳、弥山へは、吉野の下市から入るのがルートだった。
輝く太陽の下、重畳の山々を眺めながらいくつか峠を越えていくと、どこからか聞えてくる。
ア――、オー―、オ――、ア――、オ――、
尺八のようなと書いている人もいるが、僕はちょっと違う感じがする。
吹鳴の音と言うより、声帯を響かせる人間の声のように思える。この声が聞いていると、この世ではない幻の山人の歌に思えてならなかった。
夏鳥の声の記憶は、初夏の紺碧の空や新緑の山と切っても切れない。


金剛山麓の奈良県側、名柄の村に住んでいたとき、夜のとばりが下りてくると、近くの鎮守の森で決まってフクロウが鳴いた。
ホッホー ゴロスケホッホ―、
フクロウの住む高木は決まっていた
巨木のケヤキが数本天を突く屋敷森も彼らのねぐらだった。
巣立ちしたばかりのフクロウの子がニ、三羽、我が家の屋根の上で親を呼んで鳴いていたことがあった。もう親鳥と同じくらいに大きく育った彼らは、家の周りを一周するように飛び回ると、また屋根や木の梢で羽を休めて親を呼んだ。
声はまだ未成熟で、「ホッホー」にはならなかった。


突然の声の大きさで驚くのは、ホトトギスだ。
ホトトギスは鳴きながら飛ぶから、その姿を眼で追うことができる。
能勢の大阪府青少年野外活動センターは周囲を山で囲まれた小さな谷間にある。
子どもたちがキャンプしたりロッジで泊まったりしていると、ホトトギスが右の山から左の山へと、谷一面に響き渡るような声で飛んでいく。
キョキョ キョキョキョキョ
聞きなしでは、「テッペンカケタカ」.
僕の小六のときの担任の先生は、「ホッチョン タケタカタケタカ」と鳴くと教えてくれた。


初夏は子育ての季節だ。キジもそうなんだろう。
麦が青々伸び、早いところでは穂もつんつん育つ。そのなかからしゃがれたような、ハスキーな一声が聞えてくる。
声は一声、連続しない。
キジは地上に巣を作る。
野にはキツネもおれば、猫もいる。雛が生まれたら、カラスがいる。
地上生活は危険この上もない。
雉も鳴かずば撃たれまい。
でも鳴いてしまう。できるだけ鳴く回数を少なくしよう。だから、ケーン、一声大きく鳴く。
あとはしーんと、野は静まり返る。


田水が入って、山が映る。
稲の子苗がいじらしい。
ときどきカモが二羽のつがいで、グエッ、グエッと鳴き交わしながら、着水点を探している。
北の国に帰ることをしなくなったカモなのか。
奈良の信貴山の麓に住んでいたとき、夜になるとヨダカが鳴いた。
初夏の甘い夕闇に流れる幻想的なBG。
キョキョキョキョキョ、
短く早く、断続して鳴く。
裏山の雑木林で、二股の木の幹にヨタカが止まっているのを観たことがあった。
宮沢賢治の「よだかの星」にあったとおり、「みにくい鳥」だった。
賢治の「ヨダカ」はこの世界の自分を苦しみ、居場所を悲しんで、天を目指して、自ら身を焼き、星になった。


日本に帰ってきたツバメたち、東日本の被災地に巣作りすることができない。
でも、ツバメたち、被災地の上を舞っておくれよ。