大人と子どもの会話




猛烈な吹雪の中を歩くとき、方向感覚だけでなく平衡感覚もおかしくなることを雪山で体験することがある。
視界は全くきかない。雪を吹き付ける強風に体が凍える。
固くしまった雪の粒が目に飛び込み、まつげが凍り、瞬きするとぺちゃぺちゃ両まぶたがくっつくような粘り気を感じる。
進行方向がわからなくなる白一色の世界だから、前の人の足跡を踏んでいくしかない。
雪が激しいときは、先に行った人の足跡も、たちまち雪に埋もれてしまう。
桜井勝美は明治41年、北海道岩見沢市で生まれた。詩『原野の子』は、作者が教職にあったときの作だろう。
下校するとき、吹雪が強くなった。学校からひとつの集落までの集団下校だろうか。 
桜井先生は子どもたちを励ましながら、雪の原野を進んでいく。
先生の子どもたちに発する方言、子どもの名前を呼ぶ声、ひらがなばかりの素朴で力強い詩だ。



         原野の子
               桜井勝美


  からだばこんごめて
  まえのもんの
  あしあとば
  ふんでこうよ
  わきっこみんでねえぞ


  からだばひくくしろ
  ふっとばされんぞ
  まえのもんの
  あしあとば
  ふんでこうよ
  おくれんでねえぞ


     さぶろいいか
     トヨコいいか
     ふみおいいか
     じろうもいいか


  わきっこみんでねえぞ
  まえのもんの
  あしあとば
  ふんでこうよ
  あなっさおっこちんぞ
  おちあいばし
  もう すぐだぞ
  はんぶんきたぞ
  てぶくろ
  かちん かちん
  がまんしろ


     さぶろいいな
     トヨコいいな
     ふみおいいな
     じろうもいいな


  吹雪っこつよくなってきたぞ
  わきっこみんでねえぞ
  あしあとばふんで
  みんな
  おくれんでねえぞ
  からだばこんごめてな



この中に、「おちあいばし(落合橋)」という固有名詞が出てくるが、この一語は不思議に詩のリアリティを高めている。
原野の中を流れる川があるのだ。
     さぶろいいか
     トヨコいいか
     ふみおいいか
     じろうもいいか
先生は初め強く言っている。
     さぶろいいな
     トヨコいいな
     ふみおいいな
     じろうもいいな
がんばる子どもたちの様子から、先生の言い方は念押しする言い方になった。
桜井勝美は、北海道中北部の士別の泥炭地帯を詩に詠った。
 「そのうえを飛ぶとき ガンは列を乱す
 そのうえを流れるとき 雲は 竜巻をよぶ 
 そのうえを過ぎるとき 風は 火薬の匂いをもつ
 虫けら一匹生きていない みみずもなかない」



次の詩は父親と子どもの対話を詠っている。
やはり北海道が舞台になる。



         吹雪の夜の会話
                       猪狩満直

   ずいぶんふぶくね父ちゃん
   こんなに吹雪いたら小屋がのまってしまはないか
   のまったって平気だよ
   あしたも父ちゃんがスコップで掘ってやるよ。
   だって小屋が泣いてるだないか
   ああ窓がみえなくなった。
   泣いてるだないよ
   歯ぎしりかんでるのだよ。
   だってつぶれたらどうする。
   小屋なんとそんな弱虫でないよ
   はしらがづうと土の中にがんばってるんだよ
   あら あっこの穴から
   つめていな
   つめていなんて言うもんぢゃないよ
   つめていて言ふと余計に吹きこむんだよ
   バカ野郎って笑ってやるもんだよ
   だって冷たくてねむられねいだねいか
   だから父ちゃんはさっきから言ってるぢゃないか
   ばうしか風呂敷かかむってねなさいって
   明日は止むかい 
   止むとも
   明日はいいおてん気で
   お日さんは
   悪者の雪さんを
   いぢめてくれるとさ
   お日さんと
   雪さんと角力(すもう)とったら
   どっちが負けるかね
   さあみんなでねむろ
   いち・に・さん


住んでいる小屋が雪に埋まってしまうのではないか、と子どもは恐れる。
開拓民の粗末な掘っ立て小屋だろうか。柱は土の中に差し込んである。
力強く子どもの恐れを吹き飛ばすように語りかけているお父さんの頼もしさ、その余裕。
「ばうし(帽子)か風呂敷をかむってねなさい」
そうして、服を着たまま寝る。
猪狩満直の『吹雪の夜の会話』は、1929(昭和4)年に出された詩集「移住民」に載せられている。
北海道開拓者であった彼は、「移住民」の序にこう記している。

「僕はこれらの詩の一つでも炬燵の中で書いた覚えはない。‥‥ボロボロなむつきのぶら下がっている小屋の中で、零下三十度の雪の戸外で、馬そりの上で、ガスが日光にからまる圃の上で、何をかくそう、土だらけ肉刺(まめ)だらけの手で書きなぐり、そしてそれは僕の鋤やまさかりや圃で出来た穀物となんら変わりがあるだろうか。」

教師と子どもの関係、親と子の関係、子ども同士の関係、いずれもその距離がひじょうに近い。厳しい自然と向き合う人間たちの生きる姿である。
貧しい暮らしから脱却して、この関係を失ってしまったのが現代だろうか。