真実一路の旅なれど、真実、鈴ふり、思い出す

 キーと鈴、「雪花石膏」の容器と、なつめの実。



家のキー、どこへ行ったんかなあ、
キーと一緒に取り付けてあった鈴が壊れて外れてしまってから、そのキーは時々ゆくえをくらます。
外出するときにはいたズボンの右ポケットに、家のキーは、ベルトから鎖でつながれて入っている。
家に帰ってからは、家着や作業ズボンにはき替えるたびに、ベルトにつながれずに入っている。
それがたまに、着替えの時にポケットから落ちたりもする。
どこへ行ったんだろう、と探さなければならなくなるのはこういうときだった。
鈴をつけているときは、あまり探すこともなかった。行方が分からなくなったら、はいたズボンを何本か、手にとって振ってみる。
すると鈴の音がして、すぐに分かった。
車のキーにも、鈴はつけてある。
鈴は、自分の居場所を、こちらに知らせてくれる。


猫の鈴は、自由にどこへでも行ける猫ちゃんの居場所を飼い主に知らせてくれる。
でも、猫にとっては、チリンチリン鳴る鈴は、ネズミを捕るには邪魔になる。
1960年代、ヨーロッパからインドまで野宿の旅をした時、イランだったか、インドだったか、ラクダの首に大きな鈴が付けてあるのを見て、
店で三、四個土産に買ったことがあった。真ちゅう製の鐘の形をしたもので、スイスなどの国で羊の首につけてあるのもそうだった。
日本の鈴は振り子のついた鐘形ではなく、球形をしていて中に小玉が入っている。


雪ちゃんをあのユニークな雑貨屋『作家屋』へ案内したのは、ぼくが鈴を買うためでもあった。
穂高地区の森の中、わずか3、4坪の小屋がその店である。
テラスにも小屋の中にも、体をすり抜けていくスペースのみが空いていて、天井からも釣り下がり、床から積みあがり、日本と世界の各地から入手した日用品から装飾品、衣類など、いったい何種類のものがここにあるのだろうかと思うほど、雑然としていて、それでいて規律のある「愛情こもる物の陳列」だ。


ザックを背負った人は荷物を中に入れないで、という注意書きは、入ってみたら分かる。
体を回転させたら、ザックが背後の物を床に落下させることは確実だ。


「鈴がありますか」
おばさんに訊いてみたら、
「はい、ありますよ。」
とこともなげに応えて、テラスに出て、
「はい、ここにあります。」
この煩雑な物の集積のなかで、当然のことかもしれないが、ちゃんと把握しておられる。
それは小さなインドの鈴だった。一個190円。
振ればかわいい音を立てる、真ちゅう製鐘形の手作り鈴。
「このあたり、小学生は学校へ通うとき、鈴を付けて行きますよ。熊が出没するから。」
動物に鈴を付けるのと逆に、人間に鈴を付けて居場所を知らせる、そういう役割もある。
我が子二人が幼稚園児だった頃、二人のかばんにスイスの山の鈴をぶら下げた。
幼稚園が終わって午後、二人は坂道をまっしぐら駆け上がり、我が家に帰ってくる。かばんの鈴の音が遠くから聞えてくる。
「帰ってきた、帰ってきた。」
道を駆けてくる子どもの姿を見ると、親の心もわくわくしてくるのだった。


『作家屋』で鈴を二個買って、
「キーに付けておくといいですよ。」
一個を雪ちゃんにあげた。


雪ちゃんは手のひらに乗るほどの小さな容器を見つけて二個買った。
「一つは奥さんへのプレゼントです。」
指輪とかピアスとか入れるのにいいと言う。
「イタリア製です。」
雪ちゃんは家に帰って、洋子にプレゼントしてくれた。


プレゼントに貼ってあるラベルを調べてみたら「雪花石膏」のハンドメイドだった。
このお店のオーナーは、旦那は日本と世界からの仕入れを行い、奥さんが一人店に出ている。
店の目的を、「地元地域の人の役に立つ」というところに置いて営業してこられたから値段がきわめて良心的なのだ。
ぼくの買った鈴は、早速家のキーに付けた。


小さな鈴の、小さくて大きい存在意義。
「鈴」という語を頭のなかで振っていたら、よみがえってきた言葉がある。
「真実一路の旅なれど 真実鈴振り思い出す」
山本有三の小説「真実一路」の扉の言葉にあった、北原白秋の詩『巡礼』の一節である。


        巡礼

  真実、諦め(あきらめ)、ただひとり、
  真実一路の旅をゆく。
  真実一路の旅なれど、
  真実、鈴ふり、思い出す。


この詩は、七五調ではなく、八五調になっている。
野の道を歩きながら、この詩を口ずさんでみる。
「真実あきらめ」の8音で、一回鈴を振り、
「ただひとり」の5音で、一回鈴を振る。
ゆっくり歩みながら、鈴を振る、そのリズムが七五調よりも八五調にぴったりであることが分かった。
巡礼道を鈴を振りつつ歩む、そのリズムがこの詩。
鈴の音は、巡礼の心でもあった。