「父の歌」(更科源蔵)

安曇野の白鳥。田んぼに水をはり、餌を与えているのでしょう。たくさん集まってきます。病気や怪我をした白鳥は、この横のビニールハウスで保護されています。



昨日書いた「父の歌」というのは、次の詩です。

     ▽  ▽  ▽
 
      父の歌


果てしなく 雪は降りつみ
あたりに人影がなくなって
蒼い(あおい)夕暮れの中に独りいると
いつも父がやって来る


眉にも外套の襟にも 氷の花を咲かせ
どこまでも白い 雪明りの道を
少し前かがみに とぼとぼと
一生歩きつづけた姿で


白さを愛し きびしさに耐え
人一倍に光を愛し 温かさを求めて八十年
白銀のあごひげを ゆさゆささせ
夕闇の中に見えなくなった父が


吹雪の幕が去って
凍った山の線がうっすらと見え
その麓にポッと黄色い灯が入ると
父はそっちからやってくる


そして黙って私と並び
曲った腰をしゃんと伸ばすと
強い肩をあげて指差すのは
更に果てしない寂寞の道である


     ▽  ▽  ▽


この詩も、何度も何度も朗読すると、詩の世界が自分の体と心に立ち現れてきます。


「父は名もなく、財力も名誉もなく、原野の中の一本の柏(かしわ)の木のように、陽がてれば地上に影をのばし、風が吹けば口笛を吹き、ほとんど人影もない、雪深い北の原野で生涯を終えた。
だが、私は自分が失望の谷間に立たされたときとか、悲しみの極みに追い込まれたときに、
氷華(ひょうが)に包まれたような孤独の影を曳きながらやってくる父の姿を思い出し、はげまされ、ふるいたたせられるのである。」


このように源蔵は書いています。
逃れることの出来ない風土と生活の厳しさが、その中を生きつづける人間に、温かさと寂しさと、孤独の影をもたらすのでしょう。
その父の姿は、父が亡くなってからも源蔵の記憶の中に住んでいて、失望、絶望におちいったときに、
「源蔵」「源蔵」と呼びかけてくるのです。
このような生活であっても、そこにはまた温かい人との交流がありました。
アイヌのコタン(村)が北海道にはあります。アイヌの村人との交流はとても温かいものでした。


「夏になると時々夕立のあとに、東の空に大きな虹がかかった。
その虹の門をくぐって東へ東へと行くと、虹別というアイヌのコタンがあり、屈斜路湖という大きな湖のほとりにも、
やはりあごひげの長い人たちのいるコタンがあって、両方のコタンはいつも親しく往来していた。
その往き来には、必ずといってよいほど、私の家に寄って休んだり、泊まったりするのがならわしになっていた。
その人たちの声は、わき出たばかりの泉のように濁りのない、美しい響きを持っているので、私はそのコタンという村は、
とても心の美しい人たちばかりのいるところのように思うようになった。」


源蔵は、やってきたアイヌの人々からコタンに伝わる話を聞いて、森や、森の動物、鳥、魚への興味、愛情、畏敬の念を育んでいきました。


「私は若い日に、世の中から忘れられたような自然の奥地で生活したということが、私の人生を大きく豊かに育ててくれたように思います。私はそれらの土地にいる間、世にいうような偉い人にも、出世などをしようとは一度も思ったことがなく、お互いが、たのしく仲よく暮らすのにはどうしたらいいか、そんな平凡なことしか考えていませんでした。
そして私はあまり他の人の喜ばない、ひどい荒れ地のはてで生まれ育ったことを不幸だったなどということを、一度も思ったことがありませんでした。」(「北の原野の物語」)


「お互いが、たのしく仲よく暮らすのにはどうしたらいいか、そんな平凡なことしか考えていませんでした」とありますが、この平凡なことが最も重要なことで、世界中でこのことができたら、世界はもっと平和で、幸せなものになるでしょう。
源蔵のこのような考え方、北の原野にたいする愛情は、源蔵の父と母がもたらしてくれたものでもあったと思います。