カタロニア、心の歌


 
谷村新司が、スペインのテナー歌手、ホセ・カレーラスと対談していた。
カレーラスの波乱に満ちた人生を振り返るTV放送。
カレーラスの真摯にして謙虚な姿は印象的だった。
トークの最後に、カレーラスは母が歌ってくれたという子守歌を歌った。
トーク途中、カレーラスは心の中に母を思い出していると感じとった谷村は、彼の母のことを訊く。
その言葉に引き出されて、さりげなく口ずさみ出したのが、母が子どものころ歌ってくれた故郷カタロニアの子守歌だった。
彼の表情は、若くして亡くなった母をしのぶ、はるかな眼差しだった。


カレーラスバルセロナに生まれ、8歳でスペイン国立放送に出演、11歳でバルセロナの大劇場で歌った。
順調に歌手生活を上りつめていった1987年、カレーラスに不幸が見舞う。
白血病の診断を受け、助かる可能性は10パーセントであると宣告されたのだった。
それでも治ることを信じたカレーラスは、故郷の病院で化学療法を受け、アメリカの病院で骨髄移植を行なう。
信じたとおり白血病は治癒し、彼は奇跡的に生還した。
再び歌手生活に戻った彼の頭を占めたのは、白血病に苦しみ亡くなっていく世界中の人々のことだった。
カレーラスは、白血病の子どもを見舞い、励ました。そして白血病の研究と骨髄提供者登録の事業に財政的支援を行う慈善活動を開始した。
ホセ・カレーラス国際白血病財団」の設立だった。
復活を歓喜するドミンゴパヴァロッティの友情、そして実現した「三大テノール」の絶唱は世界中を沸かせた。
彼の謙虚さや人への思いやりは、大病を患ったこと、命を救われたこと、彼の復活を歓喜してくれた人びとへの愛の現われだと思う。


「スペイン人であると同時に、私はカタロニア人です。」
カレーラスは言った。愛してやまない故郷、カタロニア。
カレーラスの話と、彼の母の子守歌を聴いていて、ぼくの頭に、浮かんできたのはパブロ・カザルスだった。
カザルスも、カタロニア人だった。
音楽史上もっとも偉大なチェロ奏者であったカザルス。
彼の演奏した「鳥の歌」もカタロニア民謡だった。


1939年、スペイン内戦が軍事独裁フランコの勝利で終了する。
それから祖国スペインへカザルスは帰らなかった。
カザルスは、ピレネー山脈のフランス側の山村ブラードに住み、一切の演奏活動を断ってスペイン亡命者の救済活動に力を尽くした。
第二次世界大戦が連合国の勝利に終わり、解放を期待したパブロスが知ったのは、フランコ独裁の健在だった。
イギリス、アメリカなどがフランコ政権を承認していた。
それ以後カザルスは、フランコ独裁政権を承認する国での演奏会を行なうことはなかった。


その彼が、ケネディ大統領の招聘によって、ホワイトハウスで演奏するという画期的な出来事が起こった。
1961年のことだった。
なぜケネディの招聘に応じたのか、それはケネディが危機に立つ世界の状況を深く認識し、そのヒューマニズムに信頼できると思ったからだった。
カザルスはケネディの招きに応じる返書にこう記した。
人間性が、今日ほど重大な状況に直面したことは、いまだかつてありません。
いまや世界の平和が、全人類の祈願ともなっています。
すべてのひとは、この目標のために最善をつくすというくわだてに参加する義務があります。
大統領、どうか私の心からの尊敬と誠意をお受けください。」


ホワイトハウスで、いくつかの曲目の最後に、カザルスはカタロニアの「鳥の歌」を演奏した。
カザルスの故郷カタロニアの民謡。
「カタロニアの小鳥たちは、青い空に飛び上がるとピースピースといって鳴くのです。」
と後の国連デーでの演奏会でカザルスが紹介したことがあったという「鳥の歌」。
小鳥のさえずりのようなピアノの演奏につづいて、チェロの音がゆっくり哀愁を帯びて流れ出す。
その時の演奏を録音したCDが我が家にある。
中国へ行ったときも、持ち物のなかにこのCDを加えた。いったい何回聴いたことだろう。


昨年、中国四川省から雪ちゃんが我が家に来た。
彼女は学生時代、音楽が好きで好きで、なけなしをはたいては楽器を買い、独学で奏でてはいたものの、
もっと音楽を習いたいという欲求を充たすだけの経済的時間的余裕はなかった。しかし音楽からはなれることができないと悩んだ。
あれから8年がたった。
彼女はママになっていた。
なにか一曲を聴こう。それならこの曲だね。
我が家の小さな古いラジカセにCDをかけた。カザルスの「鳥の歌」。
短く、素朴な、空を舞う一羽の鳥の歌。
しんしんと魂を浄化する歌。