江戸時代の秋山郷の暮らし <「北越雪譜」の話 1 >




今から174年前というと、明治維新の30年前、江戸時代のことです。
鈴木牧之(すずきぼくし)という人が、「北越雪譜(ほくえつせっぷ)」という、雪の話を書きました。
鈴木牧之は越後の国(えちごのくに)、今の新潟県の人です。
冬に、3メートルも4メートルも雪の降りつもるところに住んでいた鈴木牧之は、たくさんの雪の体験をし、雪に関係した話を聞きました。
それをこの本に書いたのです。
この本の中に、秋山郷(あきやまごう)の記録があります。
秋山郷は、新潟県と長野県とにまたがる地域で、東の苗場山、西の鳥甲山に挟まれた山間で、真ん中を中津川という川が流れています。
日本の秘境と言われてきました。新潟県側に8つ、長野県側に5つの集落があります。
クマ狩りや焼畑を行っていたことでも知られています。険しい山道を歩いてやっとたどり着けるようなところで、6メートルもの雪が積もる地帯でしたから、独特の生活習慣が残されてきました。


北越雪譜」の、秋山の記録の初めには、当時15の村があったと書いています。
それらの村の戸数は、清水川原村が2軒、三倉村が3軒と少数で、多いところでも29軒でした。
鈴木牧之が初めてその地域に旅をしたときに入ったのは秋でしたが、冬になると他の地域との往き来は完全にストップしてしまいます。
その秋山郷の暮らしのことで、牧之はこんなことを書いています。


秋山では、米も麦も栽培できない。あわ、ひえを主食にしている。
蚕(かいこ)も育たず、木綿も生えず衣類に乏しいので、山にはえている「いら」という草の皮を加工して麻のかわりにしている。
昔から特に夜具(やぐ。寝具のこと)というものを用いない。人びとはすべて、冬も着物のままで眠る。
寒い冬は一晩中、囲炉裏(いろり)に大きな木を入れて火をたき、そのそばで眠る。
ものすごく寒い時は、わらを買い求めてきて作ったかます(わらで作ったむしろを二つ折りにして袋にしたもの)のなかで眠る。
秋山で、夜具を持っている家は、2軒あるだけである。それも「いら」で織った布に「いら」のくずを入れて作った綿入れのやや大きなもので、泊り客のためにだけ使う。
わらが乏しいので、わらじもはかない。男も女もはだしで、山仕事に出る。
病人には、薬の代わりに米のかゆを食べさせる。病が重い時は山伏を迎えて祈らせる。これは「源氏物語」に見える古い習慣である。
鏡を持つ女は秋山全体で5人とか。
秋山の人は、すべて篤実温厚で、人と争うことをしない。昔からわら1本盗んだ人はいない。


秋山郷はこのような暮らしでした。
文明のお陰で暖かい生活をしている現代社会の暮らしと比べてみて、昔はきびしい暮らしだなあ、と思います。
しかし、際限なく「もっと暖かく」「もっと豊かに」「もっと便利に」となっていく現代生活は将来どうなっていくでしょうか。


近年まで、何度も飢饉、飢餓が発生し、時に村全体が全滅したこともある秋山郷
今は交通の便もよくなり、飢饉、飢餓の危険はなくなりましたが、依然秘境の面影を止めながら、豊富な湯量で有名な温泉郷になって、観光客が訪れるところになりました。