山尾三省「びろう葉帽子の下で」<2>



          いろりを焚く


    家の中にいろりがあると
    いつのまにか いろりが家の中心になる
    いろりの火が燃えていると  
    いつのまにか 家の中に無私の暖かさが広がり
    自然の暖かさが広がる
    家の中にいろりがあると
    いつのまにか いろりが家の中心になる
    いろりの火が 静かに燃えていると  
    家の中に無私の暖かさが広がり
    平和が広がる
    それは ずっと長い間 僕が切なく求めつづけてきたもの
    家の中にいろりがあり
    そこに明るい炎が燃えていると
    いつのまにか その無私が 家の中心になる
    

 我が子がまだ幼かった頃、毎年奈良から木曽の妻籠の民宿に、家族でよく遊びに行った。大高取という名前のその民宿は妻籠の集落から少し離れて、山並みの向こうの飯田へ越えていく街道をとことこ歩いてたどりついた。夏の木曽踊りのころ、秋の時代祭のころ、冬のいろり火の恋しいとき、早春の「トキシラセ」の花が咲くころ、なつかしいおばあちゃんの顔を見るのが楽しみで出かけた。二人の子どもが小学生の間も、木の香りのする大きな古い農家を、故郷に帰るように訪れた。家の前には牛舎があり、わらや牛糞や牛の匂いがぷんとする。広い土間から座敷に上がり、いろりの傍に座ると、子どもたちはさっそく火ばしで灰をかきまぜたりほだ火に触ったりして遊ぶ。
「子どもは、火が好きだで」
おばあちゃんは子どもたちを見て言った。おばあちゃんは、いろりの中にほだ木を追加して、お嫁さんが準備したゴヘイモチの長い串を何本も、ちょろちょろ燃える火の回りに突き刺した。クルミをすりつぶし味噌や醤油のたれをつけたゴヘイモチの焼ける香ばしい匂いが漂う。いろりを囲んで火を見つめるひとときは、かけがえのない楽しい時間だった。
 今安曇野に住んでみると、もうどこの家にもいろりがない。いろりを囲むという、家族の暮らし方が信州からも姿を消した。便利さと暖房効率が、いろりを駆逐し、エアコン、石油やガスのストーブ、ロマンを感じさせる薪ストーブが普及した。住居環境の変化は家族の暮らしの変化でもあった。戦後の日本、テレビが普及すると、家族のだんらんはテレビを中心に焦点化した。家族は、テレビの画面を共有する。時代はさらに変化し、現代の子どもたちはそれぞれ別の空間をつくり、テレビから離れたところで、小さな機器に向かって、自分の世界を形成している。家族一人一人が寄りあい共有する暮らしや文化は、かぎりなく影を薄くしてしまった。
 三省さんは、いろりを囲む暮らしに、家族の原風景を求めた。畑の仕事、薪づくり、草を刈り、ヤギを飼い、肥桶を運んだ。


           びろう葉帽子の下で     その十四


      びろう葉帽子の下で
      山に還る
      青く 背後にそば立つ
      山に還る
      その山が たとえチェルノブイリの灰に汚染されているとしても
      わたくしには ほかに還るところがないのだから 
      山に還る
      びろう葉帽子の下で
      死期を迎えた動物のように
      また 無心のカラスアゲハのように
      山に還る
      青く 背後にそば立つ
      山に還る


 三省さんは、「くに」という言葉を「郷」と表した。故郷の郷。ふるさとの「さと」。「国」は「郷」とは別のもの、三省さんは「国」と書かず、「郷」を望んだ。「国」は統治機構であった。「国民」は統治されるものであった。国は権力構造。権力構造は戦争を引き起こした。戦争という暴力によって土地を奪い、強い国が国と国との線引きをした。



           びろう葉帽子の下で   その十九


     びろう葉帽子の下で
     郷(くに)ということばと
     郷人(くにびと)ということばを つぶやく
     奄美の郷(くに)
     奄美の郷人(くにびと)
     沖縄の郷(くに)
     沖縄の郷人(くにびと)
     アイヌの郷(くに)
     アイヌの郷人(くにびと)
     ホピの郷(くに)
     ホピの郷人(くにびと)
     びろう葉帽子の下で
     郷(くに)ということばと
     郷人(くにびと)ということばを
     心をこめて つぶやく
     統治のない 郷(くに)
     原子力発電所のない 郷(くに)
     核兵器のない郷(くに)
     その郷人のなりわい
     びろう葉帽子の下で
     パプアの郷
     カリフォルニアの郷
     コーカサスの郷
     日本の郷
     その郷人 そのなりわいと――
     心をこめて つぶやく



       びろう葉帽子の下で   その二十


      びろう葉帽子の下で
      海を見る
      ダウン「症」の息子を持つ弟が
      ダウン「症」の子は 核兵器を作らないし 原子力発電所を作らない
      それだけでも素晴らしいこととおもわないか
      と 言ったことがあった
      そのとおりである
      青々と広がる 海
      びろう葉帽子の下で 
     
 


          存在について


      最も深く祈っているとき
      人は 手を合わせはしない     
      しかしながら
      最も深く祈っている時 
      人は 手を合わせている
      存在は
      そのようにして 人を開示する


 三省さんは、詩について書いていた。ドイツの詩人ノヴァーリスの次の言葉を引いて。
 『すべての詩的なものは童話的でなければならぬ。真の童話作家は未来の予言者である。あらゆる童話は至るところにあってどこにもない、かの故郷の世界の夢である。』
 「この言葉は、詩の本質を見事に射抜いていると、私は感じる。現代詩あるいは現代詩人と呼ばれているものの多くは、自己を習うのではなく自我を追求する近代思想のもとにあるので、ノヴァ―リスが童話と呼んだ詩の本質を遠く逸脱し、本来万人のものであるべき詩を、特殊な詩壇内の合言葉のようなものに狭めてしまった。
 詩をもう一度、万人のものに取り戻したい。それが私の心からの願いである。万人の胸に開かれた自己としての神が宿っているように、万人の胸に詩が宿っているはずである。それを掘ることを、土を掘ることと同じく、自分の終生の仕事としたい。」