高賛侑君のひたむき人生


ぼくが教員になって3年目、ぼくのクラスの男子委員長は高君だった。
淀川中学校3年のそのクラスは、自主的な学級活動が実に活発だった。
6時間目の授業が終わるとショートホームルームの終わりの会になるが、担任の連絡以外はほとんど何もしないで下校するクラスが多いなかで、ぼくのクラスは延々と学級討議をしたり、学級新聞を作ったり、あるいは班活動をしたり、夕方の5時近くまでそれが続くことが日常的だった。
学級新聞社は3社あった。そのひとつの読ませる新聞の編集長を高君がやっていた。
ぼくは謄写版印刷機の最もシンプルなのをポケットマネーで買ってきて教室に置き、いつでも自由に新聞を作れるようにしていた。
いわゆるガリ版印刷で、やすりの上に置いたロウ原紙の上から、鉄筆でこりこりと文字を書いて、それを印刷機に貼り付けて刷る。
高君の新聞の一面下には横長のコラム欄があり、タイトルは「パーキング」だった。
高君の新聞社のメンバーに、後に日本料理の店を香港に出して成功している辰巳君がいた。このコンビはアイデアと実行力がすばらしく、クラスの読者は次の号の特集記事を楽しみに待つほどだった。
高君と辰巳君の書く四角い文字は、よく似ていて読みやすかった。


クラス集団の仲がどんどんよくなると、意欲がかきたてられて、生徒たちは次々と活動を生み出していくものである。
クラスの弁論大会は二回やった。
一回目だったろうか。高君と女子の委員長の貞子さんが司会をつとめた。担任のぼくは録音係。
各班から弁士が出た。
Hさんが演壇に立った。
Hさんは活発でおてんばな、少しませた女の子だった。
「私は朝鮮人です。」
弁論は衝撃的だった。
小さいときからからかわれ、ばかにされてきたこと、なぜそうするのか、
なぜ自分は反抗的で不真面目になったのか、
からかい、ばかにする、差別する人間こそが愚かではないのか、
日本はほんとうに民主主義の国なのか、
彼女の声は早口になり次第に涙声になった。
聞いていた高君は伏目がちになり、顔色が変わっていった。ぼくの体は硬直し、ただただ高君の顔を見つめていた。
いつもの元気な高君は顔面蒼白であった。


この時の録音が今手許にある。ぼくの長い人生遍歴の間、昔のテープはそのまま残り、教え子たちが再生してくれて、40年近い年月を経て開催された同窓会で贈ってくれた。
あのころのぼくは、Hさんの弁論の重さに応えることができなかった。
そのことを元にして、新たな学びを組織することもできなかった。
だが、あの弁論を行なえたことは、あのクラスであったからこそではあった。


高君は、日本の高校から民族系の大学へ進学し、社会に出てから在日のための活動に従事するようになった。
ぼくはその後転勤して、部落解放教育のるつぼの中で、在日コリアンの子どもたちの民族教育を学校内に定着させる活動を行なった。
ぼくと高君との関係は続き、高君はすでに還暦を過ぎた。そのひたすら誠実な人生の軌跡は一本の道になって見える。
高君は、1980年ごろだったか、祖国の南北の平和統一を熱く語ったことがある。
それから彼は共生共存の思想を深めていった。ジャーナリスト、研究者として、多くの著作をなした。
姜尚中氏と活動をともにしていることも知った。
今年彼の出版した本「ルポ 在日外国人」(集英社新書)を買って読んだ。ノンフィクション作家として、彼はすべての外国人への差別に目を向け、日本の病理をえぐっている。


彼は本の末尾にこう書いている。
「世界の一体化へと進む潮流は日増しに加速している。好むと好まざるとにかかわらず、日本社会も諸外国と同様に多民族多文化社会へと進んでいく。世界の潮流に乗り遅れるようなシステムは早々に改革されなければならない。多彩なアイデンティティを持つ外国人の存在は日本社会にとっても財産である。外国人と日本人が手をたずさえて、豊かな共生社会の創造に向かっていくことを願ってやまない。」


彼は昔の教え子ではあるが、ぼくの意識は友人である。コウチャニュウ、いつかゆっくりと話し合いたい。