高賛侑君は、1963年、私が中学教員になって三年目の初めての卒業生だった。彼は教え子だが、今は彼から私が教えを受ける。
あの年、高君は学級委員長だった。私は、秋に学級弁論大会を実施した。コリアンの女子、ミンジャが弁士になって、教壇に立って発表した。それは、哀しい怒りの炎に燃える演説だった。
「私は朝鮮人です。なぜ、朝鮮人はバカにされ差別されるのですか。」
在日コリアンの高君の顔が青ざめた。私は内心うろたえた。その告発を受け止めて、そこからこの差別の根源をたぐり寄せ、「撃つ」、「創る」、「共に生きる」、新しい教育の認識、方法実践を私は持っていなかった。
その後、高君は成人して、民族問題のルポライター、作家、研究者になった。日本の中の差別、人権侵害、海外の国々の実態を探求し、世界を旅して社会を掘っている。彼はいくつもの著作を出版した。
「ルポ 在日外国人」(集英社新書)に、彼は書いている。
カナダには17世紀初め、フランスとイギリスが植民地を建設したが、両国の抗争が起こり、1759年、イギリスが勝利した。フランス人はケベック州に囲い込まれた。フランス系人の胸中にイギリス系住民への強い反感が刻まれた。フランス系人はイギリスの統治から独立を求める活動を始め、1926年、外交権を獲得、そしてイギリスからの自治権も獲得し、立憲君主国家のカナダとなった。
カナダの白人は、ホワイトカナダの形成を理想とし、非ヨーロッパ系の移民を規制した。中国人、日本人の移民には人頭税を課して、制限した。
太平洋戦争の時は、日系人を強制収容所に収容した。人種差別政策は戦後もつづき、移民の80%がヨーロッパからの人たちだった。
このような移民差別政策が1960年代に変わる。きっかけはケベックのフランス系住民が独立運動に立ち上がったことだった。カナダは分裂の危機を迎えた。そこから劇的な変化が起きる。
1971年、カナダは、英語とフランス語を公用語とする、多文化主義を導入することを宣言。
1977年、人種、出自、皮膚の色、宗教、性別による差別を禁止する人権法を制定。
1988年、多文化主義法を制定。
「カナダ憲法は、すべての個人が法のもとに平等で、法の保護と恩恵を、差別なく受ける権利があり、すべての個人には、良心、宗教、思想、信条、意見、表現、平和な集会、結社の自由があり、これらの権利と自由は、男女平等に保障される。」
具体的政策。
・多文化主義はカナダの基本であり、カナダの将来を形作るかけがえのない資源である。
・すべての個人は、法のもとに平等であり、平等な取り扱いと保護を受ける。
・英語、フランス語以外の言語を保存し、保存を増進する。