集団のけんか




昔、いわゆるギャングエイジの子どもらは、隣村や隣町の子どもらと集団でけんかすることがあった。
昔の子どもらは、居住地域に遊びの集団ができていて、毎日外を走り回って遊び呆けていた。年上の子が年下の子らを仲間に組み入れ、カバーしながら遊ぶ。
子どもらは結束し、連帯感が強かった。隣近所で小集団を作っている子どもたちは、別の学校に通う隣村や町の子どもたちと対立することが起きると、居住地小集団を超えて結束する。
ぼくの子ども時代の体験では、小学4年か5年生のとき1回そういうことがあった。ぼくの町の子どもも、隣の村の子どもも、それぞれ30人ぐらい、村はずれでにらみあった。
この時は直接のけんかにはならずに、相手側が先に引き上げていってそれきりで終わった。
子どもの中には、気の強いものも弱いものもいる。それが徒党を組むと、緊張感でみんなこぶしを握りしめ、なにやら強くなった気分だった。


記録ではこんなのがある。
江戸時代、勝海舟勝麟太郎)の父親、勝小吉が書き残した「夢酔独言」は、
「おれほどの馬鹿な者は世の中にあんまり有るまいとおもう。」という書き出しで始まる「出生から十三歳まで」のすさまじい子ども時代の記録だ。
八歳のときのこんな大げんかがつづられている。


「おれは毎日毎日そとへばかり出て遊んで、けんかばかりしていたが、ある時亀沢町の犬が、おれのかっておいた犬と食い合って、大げんかになった。そのときは、おれのほうは、隣の安西養次郎という十四ばかりのがかしらで、近所の黒部金太郎、おなじく兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助と高浜彦三郎におれが弟の鉄朔というのと八人にて、おれの門のまえで、町の野郎たちとたたき合いをした。亀沢町は緑町の子供を頼んで、四、五十人ばかりだが、竹やりをもって来た。こちらは六尺棒・木刀・しないにてまくり合しが、とうとう町のやつらをおいかいした。二度目には、向こうにはおとながまじり、またまたたたき合しが、おれが方がまけて、八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をつきしが、町方には勝に乗って、門を丸太にてたたきおるゆえ、またまた八人が一生けん命になって、こんどはなまくら脇差を抜いて、門を開いて、残らず切って出たが、そのいきおいにおそれ、大勢がにげおった。こちらは勝に乗って切立しが、おれが弟は七つばかりだがつよかった。いちばんにおっかけたが、前町の仕立て屋のがきに弁次というやつが引き返しきて、弟のむねを竹やりにてつきおった。その時、おれがかけ付けて、弁次のみけんを切ったが、弁次がしりもちをつき、どぶのなかへおちおったゆえ、つづけうちにつらを切ってやった。前町より子供のおやじがでてくるやら、大さわぎさ。」


これはまた激しい。限度を超えている。
このときは、小吉は親父からこっぴどく叱られ、謹慎処分を受けている。
小吉は大人になり、その息子がかの勝海舟である。海舟はスケールの大きい人物になり、明治維新と明治の歴史をつくった。


明治時代、アナーキズムの中心人物だった大杉栄の子ども時代もすさまじい。
大杉は、自叙伝のなかに子どものころの「最初の思出」を書いているが、大杉もまためっぽう強い腕白だった。
子ども同士のけんかも、戦争まがいだ。

「戦争は大がい竹町で行なわれた。いつも向こうから押しよせて来るので、僕等はそれを竹町の入り口で防いだのだった。
竹町と言うのは、割りに道はばも広くそれに両側に家がごくまばらだったので、暗黙の間にそこを戦場ときめてしまったのだ。
 僕は家の竹薮から手頃の竹を切って来て皆に渡した。手ぶらで来た敵は、それでもう第一戦で負けてしまった。
 次には彼等もやはり竹竿を持って来た。しかしそれは、多くは、長い間物ほしに使ったのや、あるいはどこかの古い垣根から引っこ抜いて来たのだった。接戦がはじまって、両方でパチパチ叩き合っているうちに、彼等の竹竿は皆めちゃくちゃに折れてしまった。
 二度とも僕はいちばん先頭にいたんだが、向こうでもやはり二度とも同じ奴が先頭にいた。そいつは仲町の隣の下町の豆腐やの小僧で、頭に大きな禿があるので、それを隠すためにちょんまげを結っていた。もう十五六になっていたんだろうが、けんかがばかに好きで、一銭か二銭かでけんかを買って歩くという男だった。このときにもやはりいくらか出して敵の仲間に入れてもらったのだ。僕はそいつが気味が悪いのと同時に、憎らしくってたまらなかった。で、そいつを取っちめてやろうと思っていた。
 三度目の時は石合戦だった。両方で懐にうんと小石をつめこんで、遠くからそれを投げ合っては進んでいった。どうしたのか、敵の方が早く弾丸がなくなって、そろそろ尻ごみしはじめた。僕はどしどし詰めよせて行った。敵は総敗北になった。が、ちょんまげ先生ただ一人、ふみ止まっていて動かない。とうとう皆でそいつをおっ捕えて、さんざん蹴ったり打ったりして、そばのお濠の中へほうりなげて、凱歌をあげて引き上げた。」


実に激しい。この文章の中の年齢は数え年だから、2歳ほど差し引く必要がある。
大杉栄は大人になってから、幸徳秋水堺利彦荒畑寒村らと活動、社会運動に身を投じて、たびたび入獄した。
そしてそのつど獄中でひとつの外国語を習得したという。
関東大震災のときに、妻・伊藤野枝とともに大杉は、憲兵大尉に殺された。朝鮮人殺害と合わせて行なわれた反体制人物の殺害である。


昔の子どもは、野山を舞台にして遊んだ。そして時に、このようなエネルギーの発散する勝負事も体験した。
宮沢賢治の「風の又三郎」は、子どもたちの原型であろう。学校が終わったら子どもたちは山や川で遊びに興じた。
舞台が大きい、子どもの群れの存在があった、身体と心を全開する体験をしている。
そういう危険性も含んだ生活の中で、子どもは大人になっていく学びをした。


現代の子どもたちの場合、地域の子ども集団は壊滅している。
冒険性をもった子ども集団は、学校の部活動や各種の子ども会活動だろう。
かろうじてスポーツの中で、エネルギーを発散し、勝負している。
現代の子どもたちが、生育に病的な要素が生じているのは、そうなっていくような社会と環境だからであろう。
子どもたちは、箱もののなかに閉じ込められ、孤立分断され、管理され、それでいて放置されている。
自然の中で、街の中で、鍛えられることがない。
しみるような友情を交し合うことがない。