子どもへの虐待 <「カラマーゾフの兄弟」イワンの憤激>

 

子どもへの虐待が増えているという。虐待という言葉で表される事象はかなり多岐にわたる。体罰という直接の暴力にも、ネグレクトという育児放棄にもさまざまな形があり、それが虐待だと当事者はとらえていないのも多い。
 近所の家で、虐待が行なわれていることが分かっていながら、隣人たちはそれを見過ごしていることがある。学校の中で虐待が行なわれていても、同僚の教師たちは見て見ぬ振りをしたり、気づかないでいたりする。そういう隣人も教師たちも、虐待の加担者であることは確かだ。日本でも食事を与えられずに飢え死にした子もいる。虐待は、人と人の関係性の断絶、希薄が引き起こすことが多い。
 ドストエフスキーの小説「カラマーゾフの兄弟」には、子どもへの虐待について、長い長い会話がある。
 この小説は、神について、人間について、死について、生について、国家、社会、科学、宗教、愛、罪、実にいろいろなテーマが登場し、登場人物が延々とそれについて語る。虐待では、カラマーゾフ家の次男、イワンが、三男のアリョーシャに語っている。イワンはいくつかの具体的な虐待の話をしてから、こんな意見を語った。ここに載せる長い文章は、ほんの一部を抜粋している。


 「おまえにこの意味が分かるか。自分がいまどうなっているか、ろくにまだ判断できずにいる幼い子どもが、暗くて寒いトイレのなかで、苦しみに破れんばかりの胸をそのちっちゃなこぶしで叩いたり、目を真っ赤にさせ、だれを恨むでもなくおとなしく涙を流しながら、自分を守ってくださいと、『神ちゃま』にお祈りしている。おまえにこんなばかげた話が理解できるか。おまえは、言ってみりゃおれの友だちだし、弟だ。そして、神につかえる従順な見習い僧でもあるわけだが、そういうおまえに、こんなばかげた話が、なんのために必要なのか、創られているか、なんてことが理解できるか。‥‥
 聞くんだ。人は皆、永遠の調和を苦しみであがなうために苦しまなければならないとしたら、子どもはそれにどう関係する? どうだ、ひとつ答えてくれ。なぜ子どもたちは苦しまなくっちゃならなかったのか。なんのために子どもたちが苦しみ、調和をあがなう必要などあるのか、まるきりわかんないじゃないか。いったいなんのために子どもたちは、だれかの未来の調和のための人柱となり、自分をその肥やしにしてきたのか。
 人間同士が、なんらかの罪の連帯責任を負うというのは、おれにもわかる。復讐の連帯責任ということだって、おれにはわかる。だが、子どもたちが罪の連帯責任を負うというところは、おれはわからない。かりに子どもたちも、父親たちのあらゆる悪について、父親たちと連帯責任があるというのが真実だとしたら、むろんそんな真実はこの世のものとはいえないし、そんな真実、おれには理解できない。でもひょっとすると、どこぞのお調子者が、こんなことを言い出すかもしれないな。子どもたちだっていずれ大きくなれば、罪を犯すことになる、とかね。でも、じっさいにその子どもは大人になっていないじゃないか、あの子は八歳で犬にかみ殺されたじゃないか。
 ああ、アリョーシャ、おれは神を冒涜しているんじゃない。おれには、宇宙が震えるっていう状態がどんなものか、わかるんだよ。そのとき、天上と地上の万物はこぞって賞賛の声をあげ、生きとし生けるものがこう叫ぶんだ。『主よ、あなたは正しい。なぜなら、あなたの道が開かれたのですから』とな。で、母親が、犬にわが子を引きちぎらせた迫害者と抱きあい、母と子と迫害者の三人が涙ながらに、『主よ、あなたは正しい』と声を合わせて叫ぶときにだ、もちろん認識の頂点というべきものがそのとき訪れ、すべてが説明されることになるんだ。
 しかし、ここのところが難点なんで、おれはとてもじゃないが、そんなことは受け入れられない。だからこの地上にいるあいだ、おれは急いで自分なりの手段を講じようと思うんだ。いいか、アリョーシャ、このおれが、そのときまで生きながらえるか、そいつをこの目で見るために復活するようなことが、ほんとうに起こるかもしれない。で、もしその母親と、その子どもと、迫害者とが抱き合っているのを見て、自分もみんなと一緒に『主よ、あなたは正しい。』と叫ぶようなことがあるとしてもだ、おれはそうなっても叫ぶ気はないぞ。まだ時間があるうちに、おれはさっさと自衛策を講じて、最高の調和なんてものをすっぱり撥ねつけてやるんだ。そんなものは、ちっちゃなこぶしで自分の胸を叩き、くさい便所で涙を流して『神ちゃま』に祈っていた、あの、さんざん苦しめられた子どもの、一粒の涙だって値するもんか。
 そう、値しない理由っていうのは、子どもの涙が何ひとつつぐなわれていないからなのさ。あの涙はつぐなわれなくてはならないし、そうでなきゃ、調和なんてものはありえない。でも、いったい何でもってつぐなうのか。つぐなうなんてことが、ほんとうに可能なのか。やつらが復讐されることでか? でも、やつらへの復讐がいったい何になる? 迫害者の地獄が何になる? 子どもたちがさんざん苦しんだあとで、何が矯正できる? それに、かりに地獄があるというなら、調和もくそもないだろう。おれだって許したいし、抱き合いたい、これ以上人間が苦しむのなんて、まっぴらごめんだからな。
 で、もしも、子どもたちの苦しみがだ、真理をあがなうのに不可欠な苦しみの総額の補充にあてられるんだったら、おれは前もって言っておく、たとえどんな真理だろうが、そんな犠牲に値しないとな。」(訳・亀山郁夫


 この会話はまだ続く。イワンは言う。「たとえ母親でも、食いちぎられた子どもの苦しみを許す権利をもっていない、この世界中で、はたして他人を許す権利を持っている存在なんてあるのか。たとえ、おれがまちがっていも、復讐できない苦しみや、癒やせない怒りを抱いて生きる。」
 アリョーシャはつぶやく。「それは反逆だ。」と。


 イワンの長い長い会話、イワンの憤激が胸を突く。自分はこのような激しい憤りをもち得たかと。
 我が人生のいくつかの場面を思い出す。暴力、虐待を否定し、時には告発しながら、それにもかかわらず、自分もあの時あの場面で加担者ではなかったかと。そしてさらに考えていくならば、今も日本国内で、世界のあちこちで、子どもは傷つき、命を奪われ、飢えている。おまえは、それを見殺しにしている加担者にあらずや、と。

 イワンとアリョーシャの会話は、つづいて「大審問官」の物語詩へとつながっていく。
 「カラマーゾフの兄弟」は、1880年に完成した。明治維新のころである。