追悼、槙枝元文さん


槙枝元文さんの訃報を告げるTVニュースが耳に入った。
槙枝さんが亡くなられた。ああ、ついに亡くなられた。
2年前ごろから槙枝さんは好きな菜園での野菜作りにも出かけていない、と聞いていた。
弱っておられるのではと案じていたら、今朝のニュース。


日本教職員組合委員長、総評の議長を退いてから、やっとこれからのんびり晴耕雨読の生活だよと、槙枝さんは好きな農を楽しむ小さな畑を準備された。
自分から望んで任に就くというのではなく、他から要請されて任を引き受けるのが槙枝さんの人生だったが、またもやいつものケース、要請が来た。
日中友好の事業だった。
1987年に財団法人・日中技能者交流センターを創設、その理事長に就任される。それからは、この道一筋だった。
ぼくが槙枝さんに直接会ったのは、2002年だった。
日中技能者交流センターは、中国の大学へ日本語教師を派遣していた。
教師は主に定年を過ぎた元教職にあった人たちだった。その人たちを対象にして日本語教師を養成し、中国へ派遣する事業への参加をぼくも希望した。
センターでの日本語教師養成の研修に参加したぼくは、そこで槙枝さんに親しく接したのだった。


日中技能者交流センターでは、中国からやってきた技能研修生への日本語研修を行い、受け入れ企業へ派遣する事業も行なっていた。
研修会が終わり研修生を送り出すと、日本語教師たちをねぎらう昼食会がもたれる。槙枝さんはそこに必ず出席された。
かつての闘士は、穏やかな、のどかな、謙虚な人だった。その人柄が、座をなごませた。
前日、槙枝さんは、教師一人ひとりと懇談された。
そして希望を聞かれた。
中国への派遣を希望する人、国内の研修所を希望する人、
その希望をもとに、その後の計画が決まると理事長は、直接教師たちの自宅へ電話をかけて諾否を聞かれた。


日中技能者交流センター研修所では、前歴を問題にしない、話題にもしない。
以前、どこのどんな学校にいたか、どんな職や地位だったか、それを聴いたりすることはなかった。
前歴を活動の中に少しでも持ち込むことは邪魔になる。
その伝統は、槙枝さんの方針のようであった。
槙枝さんには、「えらい人」「えらくない人」というものが存在しない。その考えに教師たちも共鳴し同調した。
すべての人が同じ地平に立って、対等な関係を保つ。
だから槙枝さんが、かつては日教組の委員長であったとか総評の議長であったとか、知らない人はいなかったが、それを標榜することは槙枝さん自身好んでおられなかった。むしろ避けたいと思っておられるふしがあった。


2003年からぼくが研修所で活動していたとき、閉講式に槙枝さんが来られて挨拶された。
毎回必ず挨拶の中に入る言葉があった。
それは研修生に向かっての話に続く、参列している受け入れ企業主に言われる言葉だった。
「どうか今日から、家族が一人増えたと思ってください。」
家族の一員として受け入れてほしい、研修生を企業の労働力としてこきつかわないでほしいという素朴な心情であった。
槙枝さんはウナギの蒲焼が大好物だ。
ぼくの頭の中では昼食会の店はもう決まっていた。
なまず屋」、ここの蒲焼は炭火焼で香ばしい。
岡山出身の槙枝さんは、関東風の焼く前に蒸す蒲焼よりも、関西風の焼く前後に蒸さない蒲焼が好きだった。


愛煙家の槙枝さんは、ピースの箱をいつも背広の内ポケットに持っておられた。
「これがあるから長生きしてるんだね。」
とか好々爺の笑顔で言う。
みんなはどっと笑わった。
槙枝さんは、うまそうに吸っておられた


槙枝さんは、肺炎をこじらせてとうとう逝ってしまわれた。
齢、89歳。
岡山で教師をしていたとき、上からの指示で教え子を満蒙開拓青少年義勇軍に志願させ、
還らぬ人となった教え子がいた。
「先生のために、我が子が死んだ。」
敗戦後、教え子の母親が泣いた。
それが槙枝さんのその後の人生の原点になった。
「教え子を再び戦場に送るな」


槙枝先生、ゆっくりお休みください。
浄土で、野菜を作って、楽しんでください。