国民総幸福の国 ブータン



この人が体育の教師? と不思議に思うような人だった。
10年前、日中技能者交流センターの、日本語教師講習会を受けたとき、彼とぼくは宿舎の部屋が一緒になった。
彼、杉原さんは定年まで高校の体育科教師、ぼくは国語の教師、偶然いっしょの部屋になり、一週間の合宿ですっかり仲良くなった。
朝早く二人そろって起きると、ウォーキングに出かける。歩き出すと、二人とも負けん気を発揮して、どちらもスピードを緩めない。体操が専門だった彼は、背はぼくより低かったががっちりした筋肉質の体格だ。その彼が短い足を回転させて大またで歩く。歩行にかけては負けない自信があったぼくも張り合って歩いていると、相当な運動量になった。
「杉原さんには負けるよ。」
と息を弾ませて言うと、
「いやいや、吉田さんはすごいや。」
と応じる。

講習会ではいちばん前のかぶりつきに二人並んで座り、朝から夕方までみっちり受講した。
それは中国の大学へ派遣する教師に対する一週間の合宿講習であった。
夜、部屋に帰っておしゃべりが始まると止まらず、笑い声が絶えない。気が優しくて、柔軟な思考の持ち主だったから、体育科の教師についてもっていたぼくの固定観念が崩れた。
彼は趣味に尺八を吹いた。しかし、趣味の段階を過ぎて、プロの技を持っていると思われた。
もう一つの趣味は、上から読んでも下から読んでも同じという回文が得意で、オリジナルの名回文をいくつも作っている。これも素人の域を越えていた。送ってくれる年賀状には、うなるような名回文が書かれている。


その講習会から数ヵ月後に、日中技能者交流センター理事長の槙枝元文さんから連絡が入り中国派遣先が決まった。杉原さんは、重慶医科大学、ぼくは武漢大学になった。
どちらも長江のほとりだが、重慶はさらに上流にある。
杉原さんは重慶で二年間活動してから、日本に帰り、次はシニアの海外協力隊に応募して研修を受け、ブータンに行った。
杉原さんのブータン行きがどのようにして決まったのか、彼はこんなことを言った。
「いやあ、はははは、名古屋で地下鉄に乗っていたら、車内広告があったんだよ。シニア海外協力隊のね。それで応募したら、ブータンの国で、学校体育科の教育課程をつくる仕事に決まってね。偶然からこまが出たよ。」


ブータンときいて、ぼくはうらやましくなった。ブータンは憧れの国だったからだ。
ブータンの国のことを知ったのは、探険家であり植物学者であった中尾佐助の「秘境ブータン」(1959 毎日新聞社)を読んだことに始まる。鎖国中のブータンに、中尾佐助は馬を使って山を越えて入った。印象に残っているのは、山ビルの猛攻撃に遭った話、馬の鼻の穴まで何匹ものヒルが入って血を吸う。
ブータン国はヒマラヤの麓にあり、敬虔なチベット仏教の信者が素朴な暮らしをしている。消費文明から離れて、豊かな自然のなかで、人々は仲良く暮らしている。風俗文化は、昔の日本に似ており、日本のルーツがそこにあるように思われた。
次にブータンの現地報告は、90年代、京大の人文科学研究室で聞いた。鎖国を解いたブータンは次第に近代化していく過程にあり、自動車が暮らしの中に入ってきたのがもとで、それまでなかったトラブルが起こっている話に、ちくりと胸に痛みが走った。


そして三回目のブータン報告が杉原さんだった。杉原さんは二年間ブータンで活動して帰ってきた。それから何回か一緒に日中技能者交流センター研修所で日本語を教える活動に参加した。
杉原さんのブータン報告の核は、「国民総幸福」だった。
「国民にねえ、幸福ですか訊くと、90パーセントの人が幸福だと答えるんだよ。」
不幸な人がいる社会で人は幸福になれない。社会全体の幸福があって個人の幸福がある。杉原さんは、日本を含め世界の国々の人びとが、自分は幸福だとどれだけの人が思えているか、そのデータも伝えてくれた。しみじみ日本はどうなっているのだろうねと二人して考え込むばかりだった。


ブータンは、先進国を研究した。その結果、経済発展は、南北対立、貧困問題、環境破壊、文化喪失につながり、必ずしも幸せに直結しないことが分かった。そこで、人の幸せを追求するGNHという概念を導入した。
GNH、すなわち、Gross National Happiness=国民総幸福。


四回目の出会い、それが今。
ブータン国王と王妃の来日。
お二人は、東日本の震災地を訪問された。
祈りの心をたずさえて。