美しい景観、フランスの場合


     本日、北アルプス初冠雪。


すでに三、四本の桜の大木は、3メートルほどの高さで幹も枝も伐り払われている。
順次伐られて桜並木は無残な姿になっていく。やっぱりやるのか、この逆行。
「桜切るなら、花の咲いたときに切れ。切れるか! 」というつぶやきも、かき消された。
紅葉が始まったばかりだ。
農業用水路に沿った桜並木は、春の満開期は常念岳をバックに景観が美しく、名所となっていた。
ところが大きく枝をはる桜が日光をさえぎるようになって、並木の東側の耕作者から収穫に影響が出て困ると苦情が出、とうとう市が決断したのだ。
伐らずに、他の解決方法はなかったのだろうか。
桜並木の価値と、田畑所有者の経済性とが天秤にかけられて出た結論が、「伐る」。
日本の、信州の、安曇野の、環境に対する考え方がここに現れている。
桜は悲鳴を上げて伐られていく。


先日ゴミ出しに行って、おもしろい人に会った。
ハンドルネーム「あづみの きみ麻呂」を名乗る、同じ地区の人。
10年前に安曇野に移住してこられた。町並み、景観、環境に高い意識を持っておられるようで、
話し合っているうちに共鳴するものがあり、立ち話が盛り上がった。
きみ麻呂さんは、かの「綾小路きみまろ」氏の名をもじってハンドルネームにした。
「どうしてきみ麻呂?」
と訊くと、
穂高で開催された環境関係の集会で司会を引き受けたとき、集会に綾小路きみまろを呼びたいがギャラが高いということになって、それじゃ自分が『きみまろ』になろうと。」
「あづみの きみ麻呂」と自己紹介したらドッと受けたそうだ。エンターテイナーの才能をもっている人だ。
きみ麻呂さんと安曇野の景観について、意見を交わすうちに、「安曇野の景観は美しいと言われるけれど、住んでみたら本当かねえと首をかしげることが多いね、同感同感。」と、二人は一致した。
自然界には人の手を加えてはならない美が存在するが、人の手が加わったものはむしろ意識して取り組まなければ美しい景観にはなっていかない。
ところが安曇野の街や道路や田園地帯を美の空間にしていく意識的な行動はきわめて希薄ではないか。住民も行政も、なりゆきまかせではないか。
商業施設は自分本位に目だつ建物を建て、看板・のぼりを林立させている。大型農道沿いの看板を数えてみるがよい。
ほとんどの家・建築物も、スタイル・色など景観との調和を考えていない。景観のもっとも重要な要素になっている木立についても、その価値が認識されていないように思える。
このままでは美しい風土は醜悪なものに変わり果てるのではないか、そのことでも一致した。



作家で評論家の池澤夏樹が2005年、フランスのフォンテーヌブローに移住した時のことを書いている。
フォンテーヌブローも美しい街だ。
「(フォンテーヌブローの)美しさは町民という集団の意思が生み出したものだ。」
建物と木々とその上に広がる青空の組み合わせは立ち止まって眺めるのに値する。
それは統一性とバラエティという、相反する原理のバランスによって実現しているのだ。
統一性というのは、棟を連ねる建物の様式、白っぽい壁の色、窓の形、軒の高さなどをそろえることであり、そうして町の美を生み出している。
素材も統一する。構造部分は石やレンガ。ドア・窓は木製。
一戸建ての屋敷は、建物の形と色、屋根の勾配を統一し、建物の周りに樹木を配置して風景を構成する。
統一性があるということは規制があるということである。しかしある程度の揺らぎやブレは認められる。



「長い歳月の間に建物は住む者によって手が加えられ、少しずつ変わっていく。しかしそれがある範囲を超えることは許されない。連棟式の建物の場合、正面を白に近い色で塗るというのは例外なく守られる原則であって、自分の持ち分だけ濃い紫に塗る者はいない。それがこの社会の常識であり、それを裏付けるために法律がある。‥‥これは繁華街でも同じことで、もちろん商店は住宅よりずっと自己主張が強いけれども、それでも町並みの中の一軒であるという抑制が働いている。他を押しのけて前に出て目立とうとする者はいない。商売というのはそんなものではないという常識が行き渡っているように見える。‥‥店の名はガラス戸にさりげなく書いてある。街路に張り出したいわゆる袖看板はない。‥‥店は外から見るかぎりとてもおとなしい。常連の客を相手にゆっくりやってゆくという姿勢が見える。大事なのは品揃えであり商品知識であり、おしゃべりの楽しさだ。(チーズを何十種類もおいている店で、それぞれのチーズを)説明する店主の口調、生ハム二枚と言われて切り出して紙で包装するその滑らかな手の動き、ワインの味を説く嬉しそうな表情、そして買ったものに対する顧客の満足度、そういうものが一体となってこの店の価値を支えている。店主自身が新しい美味を探究している。だから客が付く。安定した商売とはこういうものだ。店の外観を派手にする必要はない。街路全体の品位を静かに見せていればそれでよい。」
「景観は町当局の、従って住民の総意の、成果なのだ。その意思は隅々にまで行き渡っているから、もしそれを息苦しいと思うとすれば、とても息苦しいだろう。視線をどちらに振ってもなげやりとか、なりゆきとか、はびこり放題とか、そういうゆるい部分、放任された部分がない。そして住民の総意に個々人の好みが反映される余地はない。」
フランス革命で『自由、平等、博愛』をうたった国において、実は『自由』は勝手放題を意味するわけではなかった。むしろ自由と規制がせめぎあう前線がはっきりと見える。規制によって自由が際だつと言ってもいい。」(池澤夏樹『異国の客』集英社


日本では、街や田園地帯の開発が進んだところに、点の美はあっても、面の美がない。
経済発展至上主義の後遺症であろうか。
安曇野全体、信州全体を、自然と人工の調和する美の国にしていく市民県民の美意識、重要なのはその醸成なのだと思う。