毒のあるものを判別する能力



ランが下痢をした。ドッグフード以外に何か食べたのだろうか。
昨夜下痢をし、つづいて寝る前のトイレに家の外へ連れて行ったら、また下痢をした。
「悪いものは何も食べていないのにねえ。」
「午後の散歩の時、農業水路の水を飲んだけれど、緑のカーテンアサガオの種が庭にたくさん落ちていて、それをランが食べていたからそれが原因かな。」
と洋子が言う。
「そんな小さな種をたべて、下痢になるかなあ。ひょっとしたら、それが下剤の効能をもっているかもしれないね。」
「ランはこれまでリードから離れてどこかへ行った時、変なものを食べてきて嘔吐したことがあったけど、下痢ははじめてよ。」
「犬は、これを食べたら身体によくないというのを学習して、次は食べないということはあるのかなあ。」
「動物は、毒草を知っていて食べないのではないの?}
「鳥でも、これは食べられる、これは食べられないというのを知っているみたいだね。」
「種のなかの共通の記憶というのがあるのかなあ。」
「昔、放牧の牛が毒草を食べて死んだというのを聞いたことがあるけれど、そういう体験も、死んでしまったら種の学習としては残らないよなあ。」
「自分が食べてお腹を下したら、次は食べないという知恵にはなるんだろうね。」
「それを種全体の知識として共有するのはどうやって?」
「遺伝子の中に残っているのやろか。」
親が子に教えるというのは、あらゆる食物に可能だろうか。


そんな会話をしていたら、キノコの話になった。
信州に来て、近所の人からリコボウというキノコをもらって食べた。味噌汁に入れたらちょっとぬるっとしていた。おいしいと信州の人は言うがまだその味がよく分からない。
今年は、クリタケというのをいただいた。これはバターいためをして、おいしかった。
勤務している学校の職員室で、毎日昼食時、自発的に「料理長」をつとめる副校長がキノコ汁をつくって職員に振舞ってくれたのをいただいた。
味噌汁に、油揚げ、豆腐、数種類の野菜がふんだんに入っていて、クリタケがたっぷり加えてある。
すなおなおいしさだった。
信州ではキノコをとってきて食べる文化が広くある。
最近、このクリタケと大変よく似た毒キノコをまちがえて店に出すという騒動が何度か起きている。
人間の場合は、毒があるかないか、体験をもとに知識となり記録され、その情報をもとに判別しているが、それでも図鑑や写真、言語のよる説明などの情報だけで判別すると、実物による知識のない人は間違いを起こす。
情報というものの限界だ。
毒キノコの死者はほとんど毎年起こっているのではないか。


人間は知識として蓄積した情報に頼らずに、自分の体で、自分の本能で判別する能力はない。
自ら体験して知るということをしないで、情報だけで動くかぎり、あらゆる分野で間違いは起こる。