山の上からの景色はなぜ美しい?

<写真:蛇行する野の道は美しい、白馬村で>

 一昨日登った八方尾根のウサギ平に展望台があった。
 ゴンドラ終点はウサギ平、そのゴンドラ終点の建物には、レストランやスキー用具点も入っていて、スキーヤーが休息する空間もあった。かなりいい年のおじさんが、スキー靴をはいたまま椅子に座ってゲレンデを眺めていた。そのおじさんが、いきなりぼくたち夫婦に声をかけてきた。
 「そこを出て行けば展望台があるよ。スニーカーでも行けるよ」
 建物の外は雪だったから、運動靴では外に出られないなと思っていたが、おじさんの一声で外に出てみた。雪が溶けて草地になっているところを行くと、広い木製の展望台があった。見下ろすと白馬村は箱庭だ。 視線を遠くにやると、妙高山戸隠山飯綱山の雪嶺がそびえ、さらに南へ浅間山八ヶ岳がうっすら見える。背後の白馬連山を眺め、下界に眼を移しているうちに、なんとなく満ち足りた気分になってきた。
 なんとなく感じるこの気分は、桜の季節に安曇野の光城山の頂上から安曇野を見下ろしたときにも感じた。見下ろす景観とその向こうの北アルプスの山並み、ワイドな風景だ。その広大さが人の心をとらえる。
 人には、山でもタワーでも、高い頂に立ってはるかな世界を見はるかしたい欲求がある。高みから俯瞰すると、下界は複雑な細密画のようだ。光城山の頂上から見下ろすと、町や村の建物、高速道路、犀川、木立群などが見え、巨大な地図だ。これが安曇野の美しさなんだなあ、と一種不思議な思いに駆られた。
 なぜ美しいと感じたのだろう。そのとき気づいたのは、安曇野の景色のなかに占める木々の割合だった。
 安曇野を車で走ったり、ウォーキングしたりしているとき、流れる時間帯を通して、山々を除くと面としての美しさを感じることは少ない。それは視野に入ってくるものの猥雑性に原因がある。建造物、看板、のぼり、標識、いたるところに調和もなく存在して眼に飛び込んでくる人工物が猥雑な景観をつくっている。そこにそれがあるのは、必要性があってのことだろう。誰かの、何かの必要性によって、それはそこにつくられ、置かれ、たてられている。ところが、それらがかもし出す猥雑さ、醜悪さが景観を壊している。
 頂上から俯瞰して気づいたのは、それらの下界の醜悪要素が、きれいさっぱり消去されている、ということだった。醜悪な人工物が見えない。そういう猥雑性を除去した景色だから美を感じ、したがって満ち足りた気分にもなる。
 さらに美を感じさせる要素が木々だということだった。山の上から見ると、安曇野のいたるところに存在する木々が建物、道路などの人工物よりも多く、その存在が下界を眺める人に美を感じさせるということだった。
 大都会の高層ビルやタワーから見る都会の景色は、圧倒的に建造物である。だがそこに、森、林、公園樹、街路樹が存在すると、気分が一変する。
 安曇野の場合、周辺の森林地帯の内側、田園と住宅と商工業施設のなかに、神社林、屋敷林、並木、林などの樹木群が山の上から眺望すると、際立って美の要素となっているということだった。ぞして、それに加えて、田園という要素がある。
 田園が美の要素になるのは、遠景よりも中景になってからのようである。今の季節、菜の花畑、麦畑、早苗の植えられた田んぼは、区切られた中景の美である。
 安曇野の景観を考えるとき、美の要素はますます減退していく可能性がある。雑木は伐られている。猥雑な人工物は増えている。それに対してなんら手は打たれず、市民の意識も低い。美しい景観への意識の薄さこそが最大の環境破壊となる。