伐られた樹 <安曇野の景観>



 どうしてこういうことができるんだろう。よくもまあ、こんなに無惨に伐れたもんだ。ケヤキだよ。空高く茂っていたケヤキ、それをばっさり、幹の胴切りだ。見るからに痛々しい!
 そこはいくつかの商店が入っているビルの駐車場だ。伐られたケヤキの並木は幹線道路の歩道に沿ってはいるが駐車場の敷地内にある。なぜ伐ったのだろう。樹の枝が折れて落下したら人や車に被害が出るから? 落ち葉の処理に困るから? 積もった雪が溶けにくいから? 樹の世話が大変だから? 次々と疑問が浮かぶ。
 だれが伐ると決めたんだろう。ビルのオーナーだろうか。商店主だろうか。その決定にいたるまでにどんな検討をしたのだろうか。伐るという考えに反対した人はいたのだろうか。伐ることに対する抵抗感はなかったのだろうか。伐った後の姿を見て、どんなことを思っただろうか。店に来る客から抗議の声は出なかっただろうか。

 枝を伸ばして緑の葉を茂らせていた時のほうが店の姿にうるおいがあったと、お客さんは思うだろうか。それとも明るくすっきりしたと思うだろうか。いやいや、この世相、ほとんどの人は無関心だ。樹が伐られようが、どうしようが、関係がない。伐られたことに気づかない。気づいても特に何も思わず、何も感じない。実態はもっと寂しい。他人の土地のこと、他人が決めたこと、そんなことに一喜一憂してどうなるもんか。それでもねえ、地域づくりや環境保護を仕事にしている行政の人たちは無関心ではいられないと思うが‥‥、え?どうだ? いろんな疑問が湧いてきた。

 これ、現代の日本の実態なんだ。ケヤキの樹はその土地のオーナーのもの、それを伐ろうがどうしようが、もちろんそれは自由だ。だが、樹の所有者のものだからと言って、そこに住む者そこを利用する人は関係無しですむものだろうか。雑木林のある土地の所有者が、雑木林を伐り倒し、住宅地に換えてしまうのは法律上では問題がないにしても、雑木林のある景観になぐさめられ、それを愛している住民の気持ちを「自分の土地のもの、それは勝手だ」と切り捨てることはできないのじゃないか、道義的精神的に。
 その国の民が、その国の景観を愛している。その愛すべき景観を構成している土地、建物、林、自然などは、そこに住む民の心の宝物とも言える。所有権とは関係がないけれど、故郷を構成する要素を、住民は守りたいし住民のために保存したい。超法規の「環境権」という、人と人とのつながりによって守られていく、自由な人権意識に基づく環境共有の考え方がある。
 風景は、みんなが共有しているものだ。

 散歩していると、屋敷林のケヤキが伐採されているのを発見した。大ケヤキが4本、ヒノキが1本、根元からバッサリと伐られて倒れていた。何十年か何百年か空高くそびえ、そのケヤキが北からの風を防いで家を守ってきた。けれども今はもう邪魔な存在になった。

 安曇野広域農道で希少の街路樹が二、三百メートル続いている個所がある。町村合併前の村時代に植えられたものだ。この樹、ヤマボウシか、お世話されることなく、生長が止まったかのように小さく縮こまって、貧相に立っている。根株の回りは、心のないアスファルト舗装。

 山林に囲まれた安曇野市の樹の受難。