子どもの水遊び場を復活させよう




ランを車に乗せて、家族で烏川渓谷へ水遊びに行った。
水遊びをするのはラン、それを見守るのは僕ら夫婦。
久しぶりに車に乗ったランは、後部座席に正座して窓から景色を眺めている。
いい景色だなあ。
渓谷に入ったとたんに、ランは興奮し出した。川に来たことを察知したのだろう。
佐渡の森にある県立の烏川自然公園に着くと、河原には数組の家族がテントを張ったり、バーベキューをしたりしていた。
数人子どもが谷川に入っていた。
車から降りたランは、ぐいぐいとつながれたリードを引っぱっていく。もうひどい興奮ぶりだ。
いつもの散歩用のリードを、川遊び用の長いリードに換える。
水際に来た。
よし、言うやいなやランは川に飛び込んだ。
透き通った水は切れるように冷たい。
長いリードがするする伸びて、これ以上は余裕がなくなったところで、ランは方向を変えて上流に向かって泳ぐ。
そこは堰堤の近くで、水は堰堤から下へ滝になって落下していく。
堰堤に近づくと危険であることはランにも分かるらしい。
水の落ち口近くになると方向転換して上流に向き直る。
枯木の枝を放り込んでやると、まっしぐらにそれを取りに水しぶきを上げ、くわえて帰ってくる。
ランの水遊び、ランは大満足、見ていたぼくらも大満足。


盆に帰ってくる予定の息子から、子どもの川遊びができるところがないかと聞いてきた。
僕にとっては1歳の孫、まだまだ泳ぐことはできない。
川遊びねえ、そんなところがないなあ。
烏川はちょっと無理かもしれないし、
深くてもひざぐらいの浅さで、砂地で、きれいな水の流れるところ、
木々が茂って、日射をさえぎってくれる、涼しいところ、
そんなところが思いつかない。


児童館の指導員のSさんや福祉課の係長さんとも、児童館に来る小学生の川遊びについて検討した。
安曇野にはりめぐらされた、三面コンクリート製の水路、そこで魚つりしたり筏遊びをしたりできないか、
水路組合の返答は、子どもの遊びは危険だから禁止。
Sさんは、
「私らが子どものころは、まだコンクリートで固められてなかったし、フェンスで閉ざされてもいなかったから、
学校が終わったら、よく水路で泳いだものだで。」
今の時代、安全第一であり、事故があればたちどころに責任問題になるから、何より無難に行くことが優先される。
返答は当然の結末ではある。


だがしかし、それでは子どもらは、いっさい冒険することも自然に触れることも、仲間とわんぱくすることもできないではないか。
地元の学校の校舎建設には、何十億の莫大な費用がかけられた。
至れり尽くせりの設備だ。
農業振興のためのインフラにも多くの費用が注がれた。
その一方で、子どもたちの育ちに必要な環境は破壊され、貧しく放置されてきた。
唱歌「ふるさと」は、「うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川」と歌う。
望郷、郷愁の第一に浮かぶのは、子ども時代に友だちとともに遊んだ自然である。
木登りしたこと、魚釣りしたこと、蛍を見たこと、カブトムシをとったこと、
そのほとんどすべてが子どもの生活から奪われてきたではないか。
「子どもを守れ」と言うスローガンで、子どもの育ちをなおざなりにしてきた。
危険に接して危険を知る、危険予知能力が育つ。
できないことに直面して、できるようになろうとする。


子どもの水遊びのできる、広く浅く、ゆるやかな美しい流れをつくれないか。
河原には砂を敷き、木登りのできる広葉樹をうっそうと茂らせる。
それだけでいい。
水源は豊かではないか。
金のかけ方がいびつになっているのを、是正すべきだ。


森にも入らず、虫にも接せず、
川にも行かず、魚も見ず、
ただただエアコンの効いた建物の中で、電子ゲームに興じ、ケイタイを気にする、
そんな「至れり尽くせり」の精神の牢獄をやめようではないか。
子どもの水遊び天国を再生しようではないか。