ばかげた競争



   月見草



先日、大日小屋のことを書いたが、そこからの下りを書かなかった。
その下り道、のんびり山旅になるはずだったが、とんだことになった。


ぼくと北さんは、立山から剣岳に連なる稜線から西へ分かれて大日岳に向かい、
大日小屋を通過して大日平への下山道を下り始めた。
道は九十九折(つづらおり)の急坂、右に左にじぐざく下りていく、樹林地帯の中の小径だ。
いつものマイペースで下っていると、後ろから音もなく迫ってきた男がいた。
地下足袋を履き、紺のはっぴを着た、年のころは40ぐらいの男だった。
荷物はなく空身だ。
男に道を譲ると、追い抜いた男は、ぼくらの前に立って歩きながら、
「あんたがた学生かい。山岳部の上級生だな。」
と訊く。
「いや、もう卒業しました。」
ぼくはその年の春に、北さんは昨年の春に卒業している。
「あんたがたも、シゴキやっているんじゃないのかい。」
男の言葉には棘があった。
「上級生が下級部員をしごいているだろう。ひどいじゃないか。」
その頃、多くの大学で山岳部は盛んになっていた。私学の大学山岳部は数十人という大きなパーティーを組んで登山し、上級生によるシゴキが過酷なところがあった。新入部員がシゴキに耐えかねてキャンプから逃亡する事件も起こっていた。
「ぼくらの部は、和気あいあいの部で、シゴキはありませんよ。」
昨日までその合宿に参加していたぼくらは言う。
自分たちの部は上級生下級生の関係はあっても、上下の関係はあまりなかった。
だが男は信じない。
「だいたいが、学生だろう。学生の分際で、シゴキをするとは何だ。」
猛然と批判を繰り返す。
男の数歩後から付いて歩くぼくと北さんは、黙って説教を聴くようなことになった。
彼は麓の村のガイドのようであった。
大学山岳部は上級生にしても、四年間の経験しかない。しかし、ガイドは長い年月山を歩き、山の知識も経験も豊富だ。彼らからすれば大学山岳部の四回生なんてヒヨコみたいなもんだ。リーダーとか何とか言ってえらそうな顔をするな。
確かにそれは当たっている。


その前年、穂高の涸沢をベースキャンプにして合宿を行なったとき、入山は上高地に入る昔のルート、島々谷コースをとった。
普通は安曇村島々からバスに乗るが、それをしないで、ぼくらのパーティはすべて歩いて登った。
徳本峠を越え、上高地に下り、横尾谷を涸沢に入る2日間をかけた強行軍。
一週間プラスα分の食料や野営道具を背負う特大のキスリングザックは重かった。
シゴキとは無縁な部ではあったが、行程が行程、ばてる部員が出てきて、なんとか目的地にたどり着けるように、弱る部員を叱咤激励しなくてはならない。
最後の涸沢カールへの登りにかかると夕暮れが迫っていた。
ピッケルを握って、自分もまた重荷に耐えながら、一歩一歩古代の氷河の名残りと言われるモレーンの石を踏みしめる。
声を張り上げて、ガンバレ、ガンバレと励ます自分の怒鳴り声は激しく悲壮になり、次第にシゴキの様相を帯びていった。
そういう行動になっていった自分の意識を分析してみると、時代の影響がやはり自分にも及んでいたことを自覚する。
他の大学山岳部に広がっていたシゴキを否定的に見ながら、それに近いことをしているということであった。
リーダー性の中には、時に頭をもたげる権力性がひそむ。
権力性は、強圧的な指導性となる。
教師としての指導の中にもそれがある。
その後の人生を見つめてみれば、それを是認する自分とそれと対決する自分とがいて、権力性を超克することが重要なテーマであることを認識する。


大日岳からの下り。
ガイドらしき男は、歩く速度を速めた。
ぼくらはそれについていく。
無言の下りとなった。
男は挑発するように、ますます速度を速める。
俺に付いてこれるか。
シゴキをするようなお前らに、どれだけの体力があるのだ。見せてみろ。
無言でそう言っているように思えた。
キスリングザックを背負い、重い山靴をはいたこちらは、負けてなるかと彼の後ろに付く。
スピードは飛ぶように速くなった。
地下足袋の足はしなやかに、男は音もなく駆け下りていく。
汗が吹き出る。
樹林地帯の下りは長かった。
それでもぼくらの負けん気は強く、遅れをとらなかった。


何時間の下りだったろう。
九十九折が終わって、ぽかっと真夏の太陽が照りつける平原に出た。
大日平だった。
草原に涼しい風が吹いている。
やめた、
もうやめた、
北さんと二人、荷物をおいて、青空の下にひっくり返って寝ころんだ。
ばかばかしい競争は終わりだ。
ガイドは何も言わず、たちまち森の中に姿を消していった。
彼もまたたぎらせていた競争心をそこからの一人の下りで処理していったのだろう。