烏川渓谷を歩く



 朝6時ごろ、烏川渓谷を歩いた。
 久しぶりの秋晴れ、家からランと一緒に野の道を登った。半そでシャツでは腕が少し肌寒かったが、歩くうちに汗ばみ、40分足らずで渓谷緑地公園の烏川にかかる下の橋に着いた。途中サルの親子がいて、たちまちランが緊張して姿勢がすくっと伸びた。群れのなかのオス猿も警戒声を発していた。
 早朝の渓谷は、どこにも人の姿がない。橋の真ん中に立って、常念岳蝶ヶ岳の山並みから流れ来る谷川を、しばし眺めた。静止してたたずめば、森や川が心に浸透してくる。
 山の尾根と尾根の間を流れてくる谷川は、その地形に合わせて複雑に曲がりくねってくる。直線部分は存在しないから谷筋に立って上流下流を見ても遠くは見えない。
 視線を上流に向ける。沢にかぶさる樹林と岩の間から白い激流が噴き出し流れてくる。川幅が広がるところでなめらかな透明感を見せて滑るようにうねり、たちまち橋の下を通過して下流へ競うように落ちていく。
 若いころは沢登りが好きだった。岩をへつり、浅瀬を渡渉し、深い淵は泳いで、上流へ進んでいく。先が見えないから、ルートは常に未知だった。次に何が現れるかと、冒険心・探検心がかきたてられた。その最高が、黒部川・上の廊下から源流への遡行だった。謎を解明していくわくわく感はたまらない。夏の山の醍醐味は沢登りにあった。
 烏川の流れを見ながらそんなことを思い出し、対岸に渡って左岸の散策路を登る。一本の木の幹を音もなく伝い降り茂みに消えた小さな黒い影があった。リスのようだった。上の吊橋までの道は、樹林の中のしっとりと潤いのあるいい道だ。途中で小さな瀑布が白くとどろいているのが木立の間から見える。傘の赤いキノコが道に生えている。上の橋まで行って、橋の上からまた北アルプスを眺めた。写真が欄干にかけてあり、正面の山が蝶ヶ岳であることを教えていた。そこから上流の岸辺の広場は、夏は川遊びに来る人たちの絶えない所だ。ビオトープの池が柵と紐で囲われている。
 静止して、また同じ道を下る。樹林を観察すると、思いのほか針葉樹が主になっていることが分かった。アカマツを含め、天高く幹を伸ばした針葉樹の下に、押さえられたように細い幹の広葉樹が低く生えている。広葉樹が貧困だ。右岸の山の急斜面に、枯れたアカマツが1本見えた。この辺りにも松枯れ病が入ってきている。この森で松枯れが進行したら、厄介なことになる。広葉樹が育っていないから、木々が山の崩壊を防げない。右岸の山は傾斜がきつく、土砂崩れが発生すると、谷筋を通る道路を越して烏川に一気に土石流が落ち込むだろう。
 そこで松枯れ対策が講じられるとして、明科では松枯れ病対策で薬剤の空中散布が行われたが、ここでそういうことが行われれば、この森の生物はどうなるだろう。つい最近も、この下のアカマツの群落地帯でオオタカの声を聞いた。空中散布はやってはならない。さすれば今から、アカマツが全滅することを想定して、根を張る樹木を増やし、山の崩壊を防ぐ対策をとっていかなければならないと思う。
 帰り道、またサルの一家が、道近くにいて、ランを威嚇した。ボス猿はやはりどうどうとしている。ランを放したらどうなるかな、と一瞬思う。
 歩きながら思う。安曇野は美しいところだと言われる。賛美する歌も作られている。けれど、美しいというとらえ方にも、心でとらえるのと、観念でとらえるのとがある。知識や情報にもとづく観念的なとらえ方ではなく、自分の心、自分の内部の自然が美しいととらえているか。心でとらえたものこそ美しい、そんなことを思いながら2時間の朝の散歩を終えた。
 お昼前に、渓谷緑地公園の環境管理事務所に電話を入れて、いくつか職員からお聞きした。
 一つは小動物について。ホンドリスは確かに棲息している。冬の雪の上の足跡から、テンもいる。トカゲ、カナヘビもいる。
「私はこの9年近く安曇野で暮らしてあちこち歩きまわりましたが、ついぞ一度もトカゲ、カナヘビには出会いませんでした」
と言うと、この渓谷にはいるということだった。アカマツの松枯れは、昨年7,8本あった、そのうち4本を切り倒した、ヘリコプターによる薬剤の空中散布はここではできないだろう、将来への対策、方針は今のところない、との返事だった。