左のひじに、ぽっと止まったかすかな感触、見ると薮蚊だ。
パチン、蚊は非情な一撃でお陀仏となった。
窓の外に草むらがある。そこから入って来よったか。
仮の児童館の窓には網戸がなく、やってきた僕の朝一番の窓開けとともに、昨夜の雨でうるおった草むらから飛来した蚊か。
安曇野に引越しして来た時の我が家の庭には、全く蚊がいなかった。
だからこの地には蚊がいない、と思っていた。
それが昨年、庭仕事していたら、肌をむき出しにした腕にいつのまにか止まって血を吸おうとしている蚊が現れた。
蚊の出現、この現象は、庭に草や樹や草花が茂り始めるのと比例している。
庭づくりが進むにつれ、緑がおびただしく増え、それに伴って蚊も出現した。
大和の国の金剛山麓に住んでいたときは、蚊に悩まされた。
筑80年の古家の庭には、庭木や草が繁茂していた。
背戸の畑に出て野菜を収穫した来客の若い女性は、10分ほどの間に20数箇所も蚊に刺された。
陋屋の窓には手造りの網戸を取り付けたものの、ほんの少しのすきまから蚊は入ってくるし、
屋内外の出入りの時に、戸の開け閉めする間に入ってくる。
閉口するのは、就寝時だった。眠りに入りかけたとたんに、プーンと顔の周りにやってくる。
その羽音を聞くともう眠れない。
電灯を点けて蚊を探すと、天井に止まっているのやら、壁に止まっているのやらを見つける。
それをうちわでパン、パンとたたく。
蚊もすばやい。
隠遁の術を使って、姿をくらます。
奴らはこちらが蚊退治を始めると殺気が伝わるらしい。
巧妙に隠れてしまう。
金剛山麓の蚊の襲来は、夏から始まり、数は減っていくが秋から冬にかけても続く。
12月26日、これが最後の襲撃だったと、我が家のギネスブックに載せていたら、
記録破りが現れた。
なんと1月17日、夜中にプーンと羽音が来た。
その1匹は、夏の元気はなく、弱り果てた羽音だった。
それでも血を求めてやってくるとは、なんとすごい生命力であることか。
外はしんしん冷える霜夜だ。
暖房のない室内も寒さがこたえる。
それでもどこかからやってきた。
いったいどこで生まれたのか、不思議な蚊だった。
安曇野、ここは標高600メートルを越えている。
水場は水田と農業用水路ぐらいのものだ。
大和の国のような溜め池はない。
今は夏、山からの水は、流れは速く手をつければ切れるように冷たい。
農業用水路の水に蚊のわきようがない。
蚊がわくとすれば水田だが、水田には農薬がまかれる。
農薬がなければ虫たちの楽園となるから、そんな水田があるのだろう。
水を張った休耕田なんかもサギや水生昆虫の楽園だ。
冬は氷点下の世界。
夏の間、わずかな蚊が、生きつづけ、それを食べるわずかなトンボが飛び交う。
今年、ツバメが巣づくりに帰ってこなかった。
南の国への旅の途中に異変があったのだろうか。
全体にツバメの姿が少ないように思う。
パチン、夜に一匹の蚊をたたいた。
両手のひらに僕の血が紅い二つの点となってついていた。