沖縄基地、動かない本土

michimasa19372010-05-30




日本という国、どうなっているんだろう、
異様な感じがする。
政府への批判活動は、昔も今も変わらず存在するけれども、
批判するものの主体と質が、変わってきている。
かつては弾圧を受けることも覚悟しながら、民が思想を練り、直接行動を行い、歴史の歯車を回そうとした。
そこには身体にしみる闘いの自覚があった。
学者・文化人、学生、労働者、社会活動に参加する人は、この国のあるべき姿を画こうとして、行動に移した。
現地へおもむき、現場にたって、そこに吹く風を体感し、そこに生きる人の心に触れようとした。


「鉄の暴風」と呼ばれるアメリカ軍の砲弾を浴びた沖縄戦を経て、
敗戦を迎えた1945年、
沖縄はアメリカ占領軍の軍政下に入った。
1951年のサンフランシスコ講和条約調印とともにアメリカ軍は日本に駐留して基地を確保する。
安保条約が締結され、
やがて沖縄は、軍政から民政に移行するが、アメリカ軍司令官が兼ねる高等弁務官と米民政府による統治が行なわれた。
52年、琉球政府がつくられた。
が、アメリカの施政権はつづき、「基地の島沖縄」は固定化されていった。
土地を接収して基地が拡張される。
大規模な島民による闘争が展開された。
軍用地接収反対の島ぐるみの闘争だった。


この沖縄の闘いに呼応して、日本本土における沖縄奪還闘争が熾烈化する。
学生、労働者、学者・文化人が論陣を張り、集会やデモが嵐のように湧き起こった。
60年安保闘争があった。
1968年、初めての琉球政府主席公選、
屋良朝苗氏の当選は、沖縄本土復帰の第一歩となった。
1971年、民衆の闘いはアメリカとの沖縄返還協定となって実現した。
沖縄の本土復帰は1972年5月15日だった。


沖縄返還闘争、ぼくもその時代、本土の労働者のデモ隊のなかにいた。
集会やデモのなかで歌われた『沖縄を返せ』、
デモ行進しながらぼくも歌っていた。


   「固き土を破りて  民族の怒りに燃ゆる島  沖縄よ
   我らと我らの祖先が血と汗をもて まもりそだてた 沖縄よ
   我らは叫ぶ 沖縄は 我らのものだ 沖縄は
   沖縄を返せ 沖縄を返せ」


こぶしを突き上げて歌っていたこの歌、最近、偶然ユーチューブを開いて「沖縄」で検索したら、あのころの歌声が鳴り響いて驚いた。
思いがけないことだった。
その合唱を聴いていて懐かしさが込み上げてきたが、
少し違和感を覚えるものがあった。
「沖縄は 我らのものだ」
「我らと我らの祖先が血と汗をもて まもりそだてた 沖縄」
沖縄の人たちからすれば、本土の人間は「ヤマトンチュー」、
ヤマトンチュウーがそのように歌うことができるのか。
あの時代、沖縄はアメリカ軍に奪われたまま、沖縄は本土の犠牲にされていると、
沖縄の心に一体化しようと、自らを問い直す運動の質があった。
だから本土の自分たちも同じ位置に立って、歌っていた。
その時はそれは自然な感情だったかもしれない。


しかし、それからも基地の島沖縄は存続し、65年の年月がたった。
今、沖縄の基地を、沖縄以外の日本人はどう自分の心に位置づけているだろう。


五月末決着の結果発表のあった日、
雨の降る中、傘をさして集会に参加している沖縄の民衆のなかに、無数の「怒」の文字があった。
この「怒り」は誰に向けられたものなのか。
鳩山首相一人に向けられたものなのか。
「怒りに燃ゆる島 沖縄よ」
あの時代の「怒り」と、今の「怒り」とは同質なのか。


沖縄の基地負担を他府県は肩代わりするか、NO。
安保条約と米軍基地は必要か、YES。
沖縄県民の犠牲は? しかたがない。


今、
政府非難と政府否定の論陣は、メディアばかり。
メディアによって世論が操作されている。
本土の学者・文化人も労働組合学生自治会も、
現地に入らず、
思想を練らず、
論を張らず、
行動を起こさない。
沖縄の民のみが行動している。