午前5時半、ランを連れて散歩に出た。
すがすがしい朝の野なのに、心が晴れない。
その理由は明らかで、それが頭の中をぐるぐるめぐっている。
うつうつとした気分で、農業高校の農場まで来た。
農場の真ん中には桜の大木がある。
その前に立ったら、なんとなく樹に話しかけたくなった。。
4月の開花期には巨大な花の固まりになる樹は、今は濃緑の葉を茂らせている。
樹の幹に手のひらをつけてみた。
幹の表面は、ざらざら、ごつごつと、風雪に耐え抜いてきた鎧のようだ。
手のひらに感じる硬い抵抗感が心地よい。
どんなに寒い日でも、
どんなに暑い日でも、
冷たくはなく、
熱くはなく、
それとなく温かい、
樹の肌触り。
その瞬間だった。
体を流れるものがあり、心の中の暗いおもりのようなものが融け去って、手のひらから樹の幹に伝わり、
太い枝を上に上っていく。
ああ、流れていく、
融けていく、
僕は無言でそこに立ち、樹を見上げ、心でつぶやいていた。
樹よ、樹よ、
何者をも侵さず、ここに立ち続け、
与え続け、もたらし続けてきた樹よ。
人間よりもはるかに聖なる樹。
地面から1メートルほどのところで二股に分かれた桜、その股のところには苔が生えている。
樹木葬のことが頭をよぎる。
僕は想像する。
樹木葬というのは、こういう樹のふところに抱かれることなんだ。
樹の包容力のなかに抱かれることなんだ。
何人か、何十人か、そこを希望する人たちが埋葬された場合、
見ず知らずの人たちであっても、
このような樹の家族になるんだ。
聖樹という言葉が浮かぶ。
山尾三省は、屋久島の縄文杉を聖老人と呼んだ。
人類の先祖、森から生まれた祖先、
森を出てから500万年、
人は人の死を弔(とむら)ってきた。
死は生まれてきた故郷へ帰っていくことだったのだ。
弔いは、それを祈ることだ。
母なる樹へ、
母なる森へ、
この温かい樹の家族の下へ、
森の抱擁の中へ、
帰っていく。