能力を引き出し、育て、支える


 田植えの終わった田で、欠如した稲の補植をするKさん。
 かわいい道祖神。夫婦は男性のシンボルの傘の下にいる。



保育園の子どもたちが、12段の跳び箱を跳び越え、逆立ちして歩き、夏の谷川に飛び込んで泳ぎ、文字を読み書きし、本を何冊も読み、と常識では考えられないようなチャレンジをしていく横峯吉文氏による横峰式教育法が話題を呼んでいるようだ。
その考え方は、「子どもはみんな天才である」というところにある。
横峰氏の考えに基づき、保育士が目標を設定し、その子にあわせて練習を積み上げていくことによって、一段一段不可能が可能になっていく光景は感動的だ。
子どもたちは、「自分もできた」という体験を蓄えながら、その力を次のチャレンジに向けていく。
「子どもはみんな天才である」というのは考え方であって、個人差はもちろんあり、早くできたほうが良く、できないのは良くないということではない。
「天才教育」というのは、天才のひらめきを持っている子を、特別に教育して才能を引き出す教育だが、横峰式はそうではなく、
みんな凡人だが、人間にはいっぱい可能性があり、それを鍛えれば、将来の力になるというところにあるのだろう。
不可能を可能にさせていくのは指導者のプランと大胆な支えであり、子どもの「やりたい」という意欲があって、そこに指導者の暖かい励ましが加わる。
できなくて悔しさに泣く子に、びしっと叱咤する指導者の愛情が子どもの心にしっかりとどいている。
チャレンジの過程は、子どもたち同士の助け合い、励まし合いの場でもある。
成功し、ステップのあがる度に、友だちが喜び、先生が喜ぶ。


人間はみんなそれぞれの天賦の才能をもっている。
だが、成長の過程で、そのなかの何かが開花したり、ほどほどに現れたり、隠れたままに終わったりする。
その人を取り巻く環境が、芽を出なくしてしまうし、出かかった芽を摘んでしまいもする。


保育園というものがなかった時代は、きょうだいや近所の子どもたちが群れを作り、
「ごまめ」の幼児は、兄や姉、上の年齢の子のまねをしながら、いろんなチャレンジをした。
ぼくが水泳を覚えたのは、近所の子もやっていた水泳の初めの段階、ブリキのバケツを持って近くの大きな池に行き、バケツを両手に持ってバタ足で泳ぐという練習だった。
「水泳禁止」という立て札も、フェンスもなかった。
夏の池の岸辺はむんむんと暑かった。
そこにいるのは数人の子どもばかり。
バケツ泳ぎができるようになると、次の段階は犬かき泳ぎになった。
これは大人の関与しない世界だった。
だから危険ももちろんあった。
背の立たないところで友だちがアップアップしはじめ、その横にいたぼくにしがみついてきたことがあった。
ブクブクと二人は水の中に沈みかけた。
しがみつかれた僕は、友だちの手から逃れようとして何度ももがき、危機一髪で二人とも助かったこともあった。


人間社会で気になるのは、批判のように装いながら、その実は人をおとしめる言動である。
重要な役割を担っている人を、無能であり不適格であるからという理由で非難する。
罵倒し、あざけり、おとしめ、たたきつぶす、
批判と言うより暴力的な攻撃である。
これは権力闘争という構図のなかで起こる。
民意を操作する意図もあるマスコミがあおる。
これに民衆が乗る。


ギリシアのような国でも、それがエスカレートした。
こうなると理性的な、論理的な批判は通じなくなる。
そして方向性を失っていく。


役割を担う人が、有効な誠意ある仕事・活動を完遂できるように、
その人の可能性、能力を引き出し、
天賦の才能や技術や知性が閉ざされ萎縮してしまわないように支援し、
理性的な建設的な批判で叱咤激励していく、
それが組織のメンバーの責務であり、国民もそうあるべきであり、
そのためにほんとうの批判に必要な事実をよく知ることだ。


「ほんに おまえは 屁のような」
と、首相を、おまえは屁のような男だとおちょくり、侮蔑する大見出しをつけた週刊誌があった。
おとしめることが過激になればなるほど、自ら堕落し、社会をくさらせていく。