「第一回教育創造ミーティング」<2>


 「第一回教育創造ミーティング」のなかで出てきた意見で、よく状況が理解できないところがあるのだが、野外保育で育った子らが小学校へ入ると、他の子らとの違いが出てきて、小学校の先生からいろいろ言われることがあるという。小学校の先生がその子らの行動や態度に戸惑うのか、指導が難しいのか、小学校の先生はどう思っているのか、批判的なのか肯定的なのか、そこがよく分からない。野外保育で育った子らが、行動的で、冒険好きで、枠にはまらない、想像するにそのあたりのことなのか。小学校の地域コーディネーターのMさんが、学校には「基本的生活習慣」を身につけさせるという目標があり、そのことが関係しているのではないか、と意見を出された。
 このことを考えていて、これは学校という世界、教師という存在のあり方を解明していく手がかりになりそうだと、思った。
 「基本的生活習慣」を身につけさせるという目標には、「あいさつができるか」、「時間を守れるか」、「ルールを守れるか」などの項目がある。野外保育出身の子どもらが、虫を見つけるとそれを追っていって、教室に帰ってこないとか、木に登ってはいけませんという規則を破って登ったとか、そういう傾向が見られると、きまりを守れない子だと見られてしまう。型破りな子には先生も困ってしまうということもあるだろうか。そうすると、杓子定規に指導する先生であるか、かなり大目に子どもを見守っていく先生なのか、教師の考えや個性、度量、人間性が関係してくる。度量の小さい杓子定規な教師は、野生的な子や、思いきりチャレンジしたり、興味関心のあることを追究したりすることを禁止してしまう。そうして教師の言うことを聞かない子を感情的に叱り、嫌な子だ、腹のたつ子だと疎外してしまう。自由に夢を描いて、やりたいことをやることができなくしてしまう。
 今の多くの学校はどうしてこうも画一的なのかと思えるぐらい、右に倣えになっている。個性的に行動する子をおもしろがる教師、子どもの自由や独創性を大切にしようとする教師は、学校の中で活躍できているだろうか。
 学校は集団生活体であるから、「校則を守る、秩序・規律を重んじる、指示されたことを実行する、みんなと協調して行動する」というのは学校の常識となっている。これに反する行為をしたり、態度をとったりする子は、要注意の子になる。困った子になる。結局、型破りな子にとって学校は締め付けられる四角な空間になってしまう。
 ところで、「基本的生活習慣」には、こんな内容もある。「食事をしっかりとれる」、「ボランティアに積極的に参加できる」、「整理整頓、掃除ができる」、「生活の目標や計画を立てて実行する」。
 これらの目標は、秩序とか規律とか規制的なものではない。ではこの目標はどれほどの比重をもっているだろうか。結局前者の目標が主になっているのだ。
 野外保育で育ってきた子らと、そうでない子らとが一緒にクラスをつくり、生活していくのは、歓迎すべきことだ。森や川や野原で友だちと遊びをつくり、自然を観察し、生き物に興味を感じる子らがクラスにいることで、内向きの子らが刺激を受けていくことはよいことだ。
 大学教育学部を出て教師になる人が、どれだけ野性味をもっているか、どれだけワンパク・いたずらを受け入れられるか、どれだけ枠にとらわれずに考えられるか、どれだけ常識を覆えさせることができるか、どれだけトムソーヤになれるか、どれだけおもしろい話を子どもらにできるか、どれだけ個性を重んじるか。
 教師も右に倣え、管理職も右に倣え、教育委員会も右に倣え、そんな教育界では、子どもも右に倣え。
 右に倣えに耐えられない子は学校へ行きたくなくなる。学校に反抗したくなる。