「森の子どもの村」から 「おじじ」と「おばば」のお話




北海道紋別郡の森の中で、「森の子どもの村」をつくっている「おじじ」と「おばば」が、安曇野にやってくると、
週に一回出かけている太極拳の会の休憩時間に聞き、
昨日行ってきた。
穂高の「野乃庵」という天然酵母パンをつくっている古民家の店が会場だった。


元農家の畳の間に、ぎっしり「おじじ」と「おばば」を囲んで、30代から80代の幅広い年代の人たち5、60人が座っている。
バンダナを頭に巻いた「おじじ」は今、81歳。「おばば」は76歳。
徳村彰さんと杜紀子さん。
1983年に、子どもたちの願いを受けて「子どもの村」を、北海道滝上町に開き、
1991年からそこに移住して、
1年の半分は冬という厳しい気候の中で、いのちの輝きを寿ぎながら生きてきた。


「子どもの村」をつくる前は、横浜で「ひまわり文庫」という子ども図書館をやっていた。
そこは子どもたちが群れて遊ぶ場であり、さまざまな出会いの場であり、
何よりも子どもが主人公の場だった。
子どもたちでキャンプもした。
「子どもの村」をつくりたい、子どもたちの願いに突き動かされて、二人は北海道滝上に移住したのだった。
「おじじ」は、「森」の字を、3つの「木」の組み立てでなく、彼のオリジナルの文字、「木」と「水」「土」の3字を合成して使っている。
モリは、それで成り立っているからだ。
「おじじ」の出す出版物はすべてその文字になっている。


「おじじ」は体が弱かった。
肝硬変になり、1971年、余命2年と「名医」に宣告された。
人生を振り返れば、自分はいったい何をしてきたのだろうかと思う。
今が時機だぞと、何か大きなものが自分にささやいたように思った。
病弱の上に体力はないが、それでもやりたい、やろう。
滝上町は公民館を貸してくれた。
そこを拠点に、「森の子どもの村」は生まれた。
森のいのちの中で暮らし、森の思想を深めていく。
森の好きな子どもたちがやってきた。
「子どもの村」に来る子どもたちは、小学生低学年と中学年が中心で、中学生、高校生も「村」の核になった。
「村」は子どもが主人公だ。
村の住人はテント生活をする。
夏の「子ども村」は、7月20日から8月31日。
秋の「子ども村」は、9月1日から9月20日。
冬の「子ども村」は、冬休み期間中。
春の「子ども村」は、春休み期間中。
村に残りたい子は村に残り、学校へ行きたい子は地域の学校へ行く。
行きたくない子は森で一日を過せばいい。
「子ども村」を訪れたい人は、大人、子どもの別なくいつでも歓迎する。
森が好きで、新しい時代への生き方を模索する人たちと、
「おじじ」「おばば」は、つながっていきたい。


そうして始まった「森の子どもの村」。
子どもたちは北海道から沖縄まで、全国からやってきた。
1年目は、800人が来た。
「おじじ」は言う。「初めは、はちゃめちゃな状態でした。」
ご飯の材料はこちらで用意するが、つくるのは子どもたち。うまくできない。
5キロ離れたところに一軒の店があった。
子どもたちは、その店までぞろぞろ歩いていき、ラーメンを食べてきた。
2年目は900人の子どもたちが来た。
悲しく辛い出来事が起きた。
「子どもの村」から網走まで歩く行事をやったとき、
酔払い運転の車が子どもの列に突っ込み、2人の子どもが死亡し、傷者が出た。
その時、その事故を、自分は交通事故としてとらえた。
自分は、交通事故にすりかえて責任を軽んじようとしたのだと思った。
いのちの重さ、大切さ、それに応えられなかった自分。
悩み苦しみ、うつ状態におちいった。
そのとき、「森へ行け」という心の声を聞いた。
「今がチャンスだ」という声だった。


「おじじ」は、氷点下35度の「子どもの村」の森に入っていった。
冬の森に入るのは死にに行くようなものだと、地元の人の止めるのも聞かず森に入った。
雪道の途中までは、除雪がしてあった。
その先600メートルの目的の「子どもの村」まで人は入らず深い雪だった。

「わたしの肺活量は1300ほどしかありませんでした。
スコップ一丁で、1日目は雪かきが10メートルしかできません。
2日目は20メートル。3日目、しだいに夜が明けるのが楽しみになってきました。
いろんなものが見えてきました。
小さな木も偉大に見えました。
地吹雪がやむと凍りつくような景色でした。
吹いてくる風と返ってくる風が渦を巻き竜巻のようになりました。
発見し、驚き、感心し、畏怖し、
そうしているうちにわたしのなかに新たな力が湧いてきました。
わたしは自分の中にある力に気づきました。
1週間かけて、雪の中に道を掘りぬきました。
わたしは、森にほれました。
ほれこみました。」


「おじじ」は巨大カマクラを作った。
毎年作った。
だんだん大きくなり、
間口21メートル、奥行き20メートル、高さ5メートル。
100畳の広さに、9部屋、
雪を積んでは踏み固め、
150日、1000時間かけて、つくった。
積んでは踏み、積んでは踏み、それは喜びを積み、幸せを積んでいくことだと気づいた。
春がやってきて、あっという間にカマクラは融けた。
自分の境目が解け、頭が真っ白になり、
森が自分の中に入ってきた。
暖かい、暖かい感じだった。


「森の沢には、行者ニンニクがいっぱいありました。
山菜をとりに森に入る前の晩、寝る時は胸がときめきます。
山菜をとる、キノコをとる、そうではない、
山ウドに会いに行く、キノコに会いに行くのです。
彼らはそこにあるのが分かる。
彼らはオーラを出している。
毒キノコというけれど、彼らも菌糸をはりめぐらし森を豊かにしてくれています。
野生は美しい。野生は何ものも犠牲にしない。
あなたがあるから、わたしがある。あなたがいなければ、わたしはいない。
森は菩薩の姿です。
森は、マンダラです。」


「おばば」が、書いている。

 「『おじじ』は、江田島海軍兵学校で敗戦を迎え、
キノコ雲を見た後、広島を通って郷里に帰るとき、原爆のすさまじい惨劇を目の当たりにして、
二度とこんなことがあってはならないと心に刻み、
戦後の平和運動に身を投じます。
学生時代に『きけ わだつみの声』の運動を担い、
世界平和会議に参加するために出国し、以後8年間にわたって中国や外国に滞在、
帰国してそこで学んだことをどう生かすか模索していた時期に、わたしたちは出会ったのです。
 小国民だったわたしは、終戦直前の空襲の夜、初めて父が治安維持法に問われていたことを知ります。
その後、父は山代巴さんたちとともに尾道の小さな図書館を起点に文化運動をはじめ、
私の家が活動の中心になっていました。講師としてやってくる人、それを聞きにくる農民や造船労働者、
特攻隊から帰ってきた青年――みんな身も心も飢えている時代でした。
我が家や小学校の講堂に、老いも若きも、乾いた大地が水を求めるように、
夏期大学、音楽会、劇団の公演につめかけた情景は、子ども心にも焼きついています。

『あの満天の星は誤ることなく自らの軌道を回っている。
けれど明日の自らの軌道を創りだすことはできない。
しかし人間は誤ちをただして、
明日の自らの軌道を創りだすことができるのだ。
誤ちをふみしめてのみ真実は輝き出る。』

と青年たちに意識の変革を語りかけていた父も、52歳で生涯を終えました。」
「おばば」の父は、哲学者中井正一



「野乃庵」の「おじじ」「おばば」のお話の最後に、
「おばば」は、歌を歌った。
手話をまじえながら、若々しい声で歌った。
歌は、「みんな ここにいるよ」。
初めて聞いた歌だった。
「あなたと私 今ここにいるよ」
みんなで歌った。