「森はマンダラ」 「おじじ」のお話 2




「おじじ」が、ことのほか愛している森がある。
「ほれこんだ」というブナの森で、秋田の森、「森のマンダラ」はここで感じた。
「おじじ」のそのところの文章を書いておきたい。
とても文章に書き表すことのできないことだろうが、
それでも読むものに、伝わるものがある。


 「わたしの心にどっかと居すわっている想いがあります。
『森はマンダラ』という想いです。
予感としてたいへん大事で、今までの森での積み重ねの結晶だと感じています。
だからいろんな側面から一つ一つ検証しながらこれからの生きるテーマにしていきたいのです。
‥‥
 『森はマンダラ』、ふっとそう思ったのは、秋田県の奥森吉の山中でした。
森吉山の表側はコクドなどによる環境破壊、ゼネコンによる巨大ダム建設などで見る影もありません。
でも奥森吉にはクマゲラも棲む深い森が残っています。ブナの山旅で必ずここに寄ることにしています。
最近では一週間ぐらい滞在することも珍しくありません。
桃洞の滝への径にもすばらしいブナさんたちが立ち並んでいますが、
わたしがとりわけ好きなのは、途中から分かれて黒石林道に向かう山道です。
ほとんど人に出会うことのない森です。
ここではとりわけ森のエロスを強く感じます。
森の奥で何か明るいものが身体をひらいて待ちうけてくれている、
そこへわたしが入りこみ、溶けて一つになれる、そんな森です。
 途中広場のようになったところがあります。よく昼食をとりながら休むところです。
ブナの落葉は、ゆっくり分解するといわれ、それだけに寝転ぶと肩まで埋まるようで快適です。
寝転んで上を見上げます。木々が四方から覆いかぶさってみえます。
といっても圧迫感はありません。
木々が大きなドームをつくり、その底部の真ん中にわたしが小さく枯葉に埋もれている構図です。
まわりの木々は、一本一本が個性的で、のびのび生きています。
浮世絵美人のように腰をくねっとひねってポーズをとっているものもあれば、千手観音そのもののようなブナさんもいます。
こういう深い森では、笹などはかえってまばらです。
ドームの頂上はひらけ、青空が見えます。
 『森はマンダラ』、ふと口をついて出たのがこの言葉でした。
このときわたしは、無数の生命の愛の中にいました。
ふかぶかと落葉の中に埋もれていることで、地中の生命たちともつながった感じでした。
わたしは地上だけを見ればドーム、地中まで含めると、無数の生命で構成される球体の中にいました。
頭上にぽっかりと開く穴のむこうの青空、
そのまたむこうに大日如来さんがいる感じです。
なぜか手が無意識のうちにこの穴にむかって、まるく、らせん状に動いていました。
そしてわたしは、この上もなく幸せでした。
『森のマンダラ』、その真髄はまだ見えていません。
そのまわりをぐるぐるまわっているようで、歯がゆいのですが、
ドキドキし、ときめいているのは、すぐそばまで来ているのかもしれませんね。
そう思うことにしました。
 だれになんといわれようと、自分がこれだと思う道を歩みつづけるつもりです。
 去年の十月、山中でまた肋骨を折りました。
今年は事故にあい、火事ですべてを失いました。
でも不思議なほどに森はわたしを助けてくれ、かえって力をいただいています。
『森はマンダラ』の想いを追求して、わたしはもっと深々と森に入りたいと思います。
同時にできるだけ多くの人にわたしの想いを語り、一緒になって深め合いたいと決意しました。」
                            (「森の子どもの村つうしん」から)


森を、経済の目で見れば、経済以外のことは見えない。
森を、レジャーの目で見れば、レジャー以外のことは見えない。
マンダラは、本質や真理に至るための図。
マンダラには、仏、菩薩、神々が集まっている。

心理学者・ユングは、チベットの高僧に接見してマンダラの話を聞いた。
「マンダラとは精神の像。個々人によって異なる。
真のマンダラは常に内的な像である。
みずからそれを探し出さなければならないときに、想像力によって徐々に心の内に形作られる。」

ユングは、人間普遍の宇宙観を示すものであると考えるようになった。