「エミール」<1>

 ルソーは「エミール」の序文に、こう書いている。
 「よい教育がたいせつであることについて、あまり多くは語るまい。現在行なわれている教育が悪いということを、ながながと証明することもするまい。そんなことは、たくさんの人たちが、わたしよりも前にしてしまっているし、わたしは、いまさら、みんなが知っている事柄で、一冊の本をいっぱいにしたいとは思わない。ただ、大昔から、みなが口をそろえて、現行の方法を非難しているというのに、だれ一人として、よりよい方法を提案しようとしないということを指摘しておきたいのだ。」
 大著「エミール」が完成したのは1760年である。ルソーが48歳のときであった。「エミール」ができるまでルソーは、20年間の思索と3年間の労作を必要とした。
 「われわれには、子どもというものがまったくわかっていない。子どもについてもっている観念がどだいまちがっているのだから、進めば進むほど、正道をそれていく。」
 これは250年前のヨーロッパ、そのころの教育に対するルソーの考えだが、21世紀の現代の教育も同じように言えるところが恐ろしい。
 ルソーは、教育を三つに分類した。まず自然の教育、われわれの能力や器官の内部的成長は自然の教育である。この成長をどのように活用するかを教えるのが人間の教育、そして、われわれに作用を及ぼす事物に関する経験は事物の教育であるとする。
 エミールは孤児である。その子が青年期まで育っていく過程を、小説体の教育論に著している。結婚して子どもが生まれる。生まれてきた子はどんな子であっても、それを授けたもうた御手(みて)に対して責任をとらなければならない預かり物である。結婚というものは、配偶者同士の契約であるばかりでなく、自然と取り交わした契約である。そこでその子をどのように教育していくか。人間の教育は生まれたときから始まる。子どもは自然の存在であり、自分の意志と自由を発揮する存在であるから、育て方もそれを可能にするように準備してやらねばならない。
 こんなことを書いている。
 「わたしは、子どもに、新しいもの、不恰好な、醜悪な、奇妙な動物を見る習慣をつけさせたい。ただ少しずつ、遠くから見せて、徐々に慣れさせるようにし、ほかの人がそれらをいじりまわしているのを何度も何度も見せ、ついには自分でいじってみるようになるまでにさせたいものだ。子どものあいだずっと、ヒキガエルや、ヘビや、ザリガニを見てもこわがらなかったとすれば、大きくなったとき、どんな動物を見ても恐れることはないであろう。
 子どもはお面をこわがる。わたしはまずエミールに、おもしろい顔をしたお面を見せる。それからだれかが彼の前で、その面を顔にかぶる。わたしは笑い出す。みんなも笑う。するとエミールも笑う。少しずつ、おもしろくない面に、しまいに、ぞっとするような顔の面に慣れさせていく。この段階をうまく加減したとすれば、最後の面を見てこわがるどころか、彼は最初の面のときのように笑い出すだろう。」
幼児期になる。
 「ころんでも、頭にこぶをつくっても、鼻血を出しても、指を切っても、わたしは驚いて子どものそばに駆け寄ったりしないで、しばらくのあいだは、じっとしているだろう。子どもがそれをがまんするのは、一つの必然である。いかにわたしがあわてふためいても、子どもをいっそうこわがらせ、その痛みを増すだけである。実際けがをしたとき、われわれを苦しませるのは、傷そのものよりも、恐れの気持ちなのだ。わたしはせめて、この二番目の苦しみだけはさせないでおくことだろう。というのは、わたしがそのけがをどう判断しているかを見て、彼は自分のけがの程度を判断するにちがいないのであるから。わたしが冷静を保っているのを見れば、やがて彼も落ち着きを取り戻し、痛みを感じなくなれば、もう傷は治ったと思うことだろう。この年頃にこそ、人は初めて勇気を持つことをおぼえるのだ。そして、おろおろせずに軽い苦痛を忍ぶことによって、だんだん大きな苦痛に耐えることを学ぶのだ。
 ‥‥苦しむということは、彼が学ばなければならぬ最初の事柄であり、将来のためにいちばん知っておく必要のある事柄である。子どもが小さく、力の弱いのは、このような重大な教訓を、危険なしに学び取るためではないかと思われる。」
 子どもは成長の第二段階にはいると、人に頼らないで自分の力を発揮するようになる。ここにおいて自己という意識が生まれ、自己の同一性という感情がひろがっていく。その結果、幸福とか不幸とかを感じることができるようになる、とルソーは考えた。そこで、ルソーは、もうこの時期から子どもを一個の精神的存在として考えなければならないとしたのだった。ルソーは批判する。
 「現在を不確かな未来のために犠牲にし、子どもにあらゆる種類の枷(かせ)をはめ、わけのわからない幸福と称するものを遠い将来に用意するために、まず子どもをみじめにすることから始める野蛮な教育を、どう考えたらいいのか。不幸な子どもたちが徒刑囚のように苦役に従事させられ、どうして憤慨せずにいられよう。どれだけの子どもが、父親や教師の、途方もない知恵の犠牲となって死んでいくことか。」
 ルソーは、生まれてきた子どものうち、せいぜい半数が青春期に達するに過ぎないと、その時代の寿命を書いている。
 では現代社会はどうか。現代の社会と家庭、学校の、人間教育はいかなるものになっているか。