朝河貫一『日本の禍機』

       <コメントをいただいた記事>

 「拾ガ堰」にかかる橋。


穂高村出身のジャーナリストにして外交評論家であり、
『暗黒日記(戦中日記)』を書いた清沢 洌(きよさわきよし)の思想に影響を与えたのは、
清沢の恩師である研成義塾の井口喜源治、内村鑑三の無教会派キリスト教儒教の中庸思想、アメリカのプラグマティズム、そして朝河貫一の『日本の禍機』である、
と、ブログの8月25日に書いたことで、形影生さんというペンネームの方からコメントをいただき、
その方の紹介された講演記録を読んだ。
講演は2007年9月9日、
駐米日本大使 加藤良三氏によるもので、演題は「朝河博士と日米関係」。
それは次のような要旨(一部)だった。

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福島県が生んだ、比較法制史の泰斗である朝河貫一が、アメリカのイェール大学の教授となってから百年。
彼は、現実の国際政治についても、考察力が抜きんでたものがあった。
アメリカという国、アメリカ国民についての朝河の認識には透徹したものがあり、
今日に至るまで、いささかも古びていない。
1909 年に著された『日本の禍機』で述べられたアメリカ論、アメリカ人論をこえるものは未だない。
『日本の禍機』で朝河貫一は、
日露戦争の後、日本の中国大陸への権益の伸張を目指した政策が、
欧米諸国との深刻な対立を招き、いずれは日米衝突に結びつきかねないことを警告した。
朝河貫一は、
当時の日本の中国大陸への政策が、中国の独立と領土保全、門戸開放と機会均等、
つまり、日本が日露戦争で旗印とした考え方に背くものであり、
それ故に国際社会の理解を得られるものではない、
と指摘した。
先見の明以上の指摘である。
1909年という時代にあって、朝河寛一は、世界の中で、歴史の中で、日本がどのような意味や役割を持つのか、という客観的な視点をいつも重視されていた。
朝河寛一は、
人類の一員である日本人が、いかに世界史の舞台に遅く現れたにせよ、世界史の軌道に「正しく」貢献するべきである、
という信念を持ち続けていた。
それ故、日本の行動が世界史を貫く道理にそっていると確信する場合には、日本の立場を世界に向かって主張する、
その逆と思える場合には日本を批判した。
前者は日露戦争に当たっての言論活動であり、
後者が『日本の禍機』である。
朝河は、外交が実際必要な局面で機能しうるものだということを、我々に想起させる。
最近は、どちらかというと、大事なときに、外交が脇にどけられることがよくあり、
一面、外交とは「まどろっこい」、という感じがある。
しかし、アメリカの仲裁によって日露戦争終結し、1905年、ポーツマス条約が締結されたことは、外交の役割の好例である。
ポーツマス条約の背後には、イェール大学での「日露和平シンポジウム」があり、
朝河先生はそのシンポジウムの陰の立て役者として活躍され、ポーツマス講和会議でもオブザーバーの資格で参加された。
朝河先生の功績はイェール大学在職百周年を迎え、また没後60 年を経た今日においても大きな意味を持っている。

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こういう論旨の講演であった。
国が強大な軍事力をもつと、外交が失敗したり、うまく機能しなかったりしたとき、
外交努力を打ち切り、軍事力にものをいわせようとする。
そして戦争が勃発する。
外交は、世界の国々と対話し、信頼関係を築き、調和し、平和的にものごとを解決していく仕事だ。
他者と交流し、他者を知り、両者がうまく行く方法を、コミュニケーションを尽くして探っていく。
根気強く、あきらめないで、友好的に、努力をする、
そういう外交努力のできる人が政府の要職にいたならば、歴史は変わっただろう。
北朝鮮との関係でも、難しい国であればあるほど、その努力が必要になる。


中学校高校の歴史の勉強のなかに、
「どうすれば戦争が防げるか」というテーマは欠かせないと思うのだが、
実際の社会科の授業ではまず行なわれてはいないだろう。
生徒たちが、歴史書をひもとき、事実関係を調べ、互いに話し合って考えていく授業。
結論を出さなくてもいい。
考え、討論することが大事だと思う。
どうだろうか。