『差別と日本人』と『「村山談話」とは何か』(3)


火の見やぐら


             信義


話というのは時の流れに乗っかって通りすぎて消えていくものだから、
耳を傾けて聴かねば‥‥。
耳を傾けてもなおも、通りすぎていってしまう。
天体に向けられた望遠鏡をのぞくように、話のなかのある言葉の奥を探れば、
その奥には宇宙が潜んでいるのだ。

たとえば、
中国の胡錦濤主席との会談で、鳩山首相は、
日本の植民地支配と侵略への反省と謝罪を表明した95年の、
「『村山談話』を踏襲する」と表明したとのことだが、
この『村山談話』という4文字は、
会話では1秒か2秒で消え去り、
記事になれば瞬間で読み飛ばしてしまう。
読み飛ばし、聴き飛ばしてしまえば、その言葉の1点の奥に広がる歴史的事実は棚上げしたままになる。
さらに『踏襲する』という4文字で言ってしまうと、
言葉の宇宙を置いてけぼりにする。


実際にその場では、鳩山首相は、
自分の言葉で、奥に潜む事実を想いながら語ったのだろうが、
報道という「形」は、こうした短絡的表現で時間と空間の制約のなかに表現を押し込め、
右にならえ式の言葉にしてしまう。
報道を受け取る側は、言葉を通過してそれで終わり。
奥の宇宙まで頭が広がらない。


「『村山談話』とは何か」(角川書店)には、『村山談話』の全文が冒頭に掲載されている。
全文で、約1400字余り。
「戦後五十年に際しての談話」(平成七年八月十五日)と題されている。
その中を一部分を取り上げてみると、


「平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。
私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、
戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。
特に近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、
なによりも、これらの諸国との間に深い信頼と理解にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。」

「わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、
責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、
平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。
同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、
核兵器の廃絶を目指し、
核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。
これこそ、過去に対するつぐないとなり、
犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、
私は信じております。」


「談話」は「日本国憲法」の精神そのものを敷衍化した。
最後を次の言葉で締めくくっている。


「『杖(よ)るは信に如くはなし』と申します。
この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、
私の誓いの言葉といたします。」


『杖(よ)るは信に如くはなし』は、中国古代の史書「春秋」を解説した「春秋左氏伝」にある言葉。
頼りとするものとしては、信義以上のものはない、という意味になる。
鳩山首相オバマ大統領の会談も、信頼の構築に重点が置かれた。


ちなみに「信義」という人間関係のことでは、
民法一条二項には、「信義誠実の原則」(信義則とも言う)が定められていることを、今ごろになって知った。
すべての人は、共同生活を営む社会の一員として、互いに相手の信頼を裏切らないように誠意をもって行動すべきであるという原則。
法と道徳とを調和させるための基本原理である。
道徳律の「信義」を人間間の約束事として法に定めている。