『差別と日本人』と『「村山談話」とは何か』<角川書店>(2)


             誇り


野中広務は最後のほうで、こんなことを語っている。


 「このごろもう疲れちゃってるんだ。
ほんとに、自分の出生問題の波及の大きさ、
日本の閉鎖性と、僕はずっと闘ってきた。
誰も手をつけなかった同和利権に関する税の問題などは、自分が政治家でいる間につぶしておかなければ永久にこれは続いていくと思った。
四面楚歌の時もあったけれども、いろいろな人の力を借りてやってきた。
みんなまじめにやろうよと、一生懸命やろうよということを僕は伝えたかったからね。
 こうしていろいろな問題と闘っていれば、選挙の時に、僕の名前を書いてくれるんじゃないかと思って、これまでやってきた。
皆さんのおかげで、十数万の人が自分の名前を書いてくれて、そして衆議院に送ってくれた。
 しかし、今振り返ってみて、じゃあ俺に返ってきたものは何なんだと。
結局自分が有名になればなるほど、僕の出自がマスコミを通じてわかるようになってきた。
次第にうちの家族は、親戚やいろんなところから冷たいまなざしを向けられるようになってしまった。
政治家としてやっておかなきゃという使命感が強ければ強いほど、やっぱり‥‥。」


そして、野中の嘆き。
「寂しいよ。このごろ余計に寂しくなった。年とともにね。
俺の83年間の努力は何だったんだろう。
 一つも日本っていうのは目を開いてないじゃないかと。」


辛淑玉が、あとがきにこんなことを書いた。


 「アフリカ系アメリカ人の血を引くバラク・オバマが大統領になったことで、
多くの人が救われた気持ちになり、希望を持ったように、
野中広務』も被差別者のアイドルであり、星だったのだ。
そして、彼は頂点に上り詰めようとした。そのためには、時には被差別者であるという立場をも武器にした。
 部落内部の矛盾と、外からの差別、そして自民党内で彼に向けられる有形無形の差別の中で、
価値観や心情を同じくして彼とともに闘える人はほとんどいなかったように思う。
その意味で、彼は間違いなく孤独だったはずだ。
 部落の男である『野中広務』にとって、家族はどんなことがあっても守らねばならないものだったに違いない。
彼が弱音を吐いたり泣き言を言ったりできる場所は、どこにもなかったのではないだろうか。
彼には、結果として、家族を十分に守りきれなかった心の痛みがあるように私には思える。」


在日朝鮮人として、差別の痛み、悲しみ、辛さを痛感してきた辛淑玉さんだからできた対談だった。
対談とは、自己主張をやりあう場ではない。
相手の心に近づき、くみとり、引き出し、傾聴する、互いのその姿勢が交流するなかで形作られていくものだ。
辛淑玉は、『差別と日本人』の終わりに、丸岡忠雄の詩「ふるさと」を載せた。
1970年代の初頭、この詩は、大阪で中学校解放教育(同和教育)読本『にんげん』が編集されたとき、その冒頭に掲載された。
読本『にんげん』は、現場の教師たち、人間教育を志していた人たちが集まり、検討を重ねて作り上げていったものだった。


          ふるさと


   “ふるさと”をかくすことを
   父は
   けもののような鋭さで覚えた
   ふるさとをあばかれ
   縊死(いし)した友がいた
   ふるさとを告白し
   許婚者(いいなずけ)に去られた友がいた
   吾子よ
   お前には
   胸張ってふるさとを名のらせたい
   瞳をあげ何のためらいもなく
   “これが私のふるさとです”
   と名のらせたい


“ふるさと”に誇りを持てるようになったとき、
人は胸張って“ふるさと”を名のるだろう。
出身地だけでなく、職業、生活実態、学歴・出身校など、
そのことが差別の対象になる可能性があると感じた場合、人はそれを名のることにためらいをもつ。
差別意識が人々の間にうごめいていることを知れば、
名のることへの恐れをいだく。
差別社会は、「隠す」という閉鎖的な負の心を助長するのだ。
自分の民族に、自分の国に、出身に、誇りを持てるか持てないか、
それは生き方に現れてくる。
1970年代、ぼくらの実践のなかの柱の一つは、虐げられてきたものの誇りをとりもどすことだった。
部落差別、民族差別、職業差別、障害者差別、さまざまな差別を受けている人々、
自分の誇りを取りもどすことは、差別にうちひしがれずに敢然と生きている仲間を知ることだった。
どうすればみんなが仲よく生きていける社会にできるか、考えることだった。
人間としての光を取りもどすことだった。


今の日本、
失業者や就職できない人たちが増えている。
彼らは、就職試験の面接で、つぎつぎと落ちた。
若者たちは、スーツも持ち合わせていなかった。
服装によって彼らの人間性が判断されたのだった。
一着のスーツも持たない若者たちに、
就職活動のためのスーツを貸し出すNPO活動を始めた人のことをニュースで知った。
スーツを着た若者の顔に笑顔があった。
自信と誇りをとりもどす小さな、しかし大きなきっかけだった。