清沢 洌(きよさわきよし)の思想と現代


 井口喜源治記念館



穂高村出身で、あの『暗黒日記(戦中日記)』を書いた、ジャーナリストにして外交評論家であった清沢 洌(きよさわきよし)の展覧会が、穂高の碌山公園研成ホールで開かれている。
8月23日に、そのホールで、「清沢 洌の 思想と現代  --―生誕120年を前にして」をテーマに講演会があった。
講師は、静岡大学副学長の山本義彦氏。
何はさておき、これは聴かねばならん、と出かけた。
碌山美術館に隣り合ったホールの2室で清沢 洌展が行なわれ、別の1室、それは学校の教室をひとまわりほど大きくした程度だったところが講演会場だった。
会場はすでに満員だった。
数えてみれば110人ほど、圧倒的に高齢者だ。
それにしても農村地域の小さな町でのこのような講演会に、これほど人が集まる、
あらためてこの地域の文化度の高さを感じた。


清沢 洌は、井口喜源治の主宰する穂高の研成義塾で学び、
1907年(明治40年)17歳のとき、喜源治の教えにそって、労働移民がほとんどのなか研学(学問をすること)ビザでアメリカに渡った。
清沢 洌は、シアトル、タコマで、病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めながら、ハイスクール、大学で学んだ。
1911年(明治44年)頃から、米国内の日本人向け新聞社の記者となる。
当時はアメリカ西海岸において日本人移民を排斥するアメリカ人の運動が激しくなっていた。
清沢 洌は、日本人に対して蔑視と敵意をもつアメリカ人の運動に遭遇しながらも、排日に反対するアメリカ人もいることも知る。
アメリカの多元主義思想を見たのだった。
清沢は、排日運動の厳しさを身に受けながら、反米におちいらなかった。
同じような立場にいたアメリカ留学生の松岡洋右は、反米感情をいだき、のちに国際連盟脱退の立役者になり、日米交渉反対を貫き、戦争の道を突き進んだ、それとは対極的に、
清沢 洌は、日本が軍国主義国家になり、ついに日米開戦への道を進むなかで、軍閥・官僚を批判し、一貫して日米友好を訴え、自由主義平和思想からの言論活動を行ない続けた。
日米開戦勃発の翌年の12月から、彼は「戦争日記」(『暗黒日記』)をつづり、危険を感じつつも戦後日本における国家再建の反省材料にしようとした。
『暗黒日記』には、「戦争を世界から絶滅するために、敢然起つ志士、果たして何人あるか、われ少くもその一端を担わん」とある。
清沢は、敗戦の三ヵ月ほどまえ、肺炎がもとで急逝した。


山本義彦氏は、清沢の多元主義と平和の思想形成について考察しつつ、過去の日本から現代にいたる日本をつらぬくものを説こうとした。
清沢に影響を与えたものは、
研成義塾の井口喜源治、内村鑑三の無教会派キリスト教儒教の中庸思想、アメリカのプラグマティズム、朝河貫一『日本の禍機』、‥‥
一人の人間像を、人間形成の視点から分析することは難しい。
山本義彦氏もそのことを痛感しながらの考察道半ばという感じだった。
経済学者でありながら、清沢に出会って16年、今やこれがライフワークになっているという感がある。


清沢は、我が子に、こんな文章を遺している。


「お前が大きくなって、
どういう思想を持とうとも、
お前のお父さんは決して干渉もせねば、
悔いもせぬ。
赤でも白でも、それは全然お前の知的傾向の行くままだ。
しかし、お前にたったひとつの希望がある。
それはお前が対手(対立相手)の立場に対して寛大であろうことだ。
そして一つの学理なれ、思想なりを入れる場合に、決して頭から断定してしまわない心構えを持つことだ。」
                           (昭和8年3月14日)


清沢 洌は、井口喜源治の研成義塾について書いている。


 「僕がその私塾、研成義塾に入学したのは小学校を出てしばらくしてからだった。
行ってみるとこの研成義塾には先生が一人しかいない。生徒はと見ると、高等小学校四ヵ年分の生徒と、
それから補習科が三年ぐらいに分かれている。
つまり七つの学年にわたる生徒たちを一人で教えているのである。
しかもその七学級内外の生徒の総数が三十人ばかりだったから、一学年あたりの生徒数は五人平均とはなかった。
 教室は一つで、前のほうが高等小学校、後列が補習科である。
先生が自分でチリンチリンと鈴を鳴らすと、生徒は自分の席に着く。
教授の方法としては小学校を二つに分け、補習科を一つにしていた。
そこで一つの組が終わるまでは他の組は予習をしていなくてはならぬ。
 一人で七つの学級を教えるのだから、地理も歴史も、代数も幾何も、英語も漢文も、
すべてこの先生一人で受け持たなくてはならぬ。
 どれだけ学問が深かったかは、子どもとしては知る由もなかったが、
ただこの先生が何でもよく知っているのには驚きを禁じえなかった。」
                        (相馬黒光穂高高原」)