長塚節『土』と 臼井吉見『自分をつくる』



信州安曇野の堀金出身だった、作家で評論家の臼井吉見が、中学生、高校生に、『自分をつくる』という話をしています。
その話は、以前一冊の本になったのですが絶版になり、
本屋で買うことはできなくなっていました。
半年ほど前、この『自分をつくる』が、安曇野臼井吉見文学館によって再び本になりました。


臼井吉見は、中学時代に読んだ本のことを話しています。
臼井吉見が中学で学んだのは大正時代ですから、日本の今の中学ではなく、昔の旧制中学です。
彼は、中学二年になって、長塚節(ながつかたかし)の『土』という小説を読み、たいへん感銘を受け、こんなふうに話しています。


「この本の表紙には、ほうせん花の美しい絵が描かれていて、いまもそれが目に浮かびます。
主人公は茨城県の鬼怒川のほとりに住む、勘次という名前だったと思います。
妻はお品というんだったと思いますが、この貧しい小作人の貧乏ぐらしが中心になって、それをめぐっての春夏秋冬の移り変りを、こくめいに写しとった傑作です。
ぼくは中学二年の一学期にこれを読んで、目からうろこが落ちるような思いをしました。」
「『土』は、ぼくが生まれ育った農村生活が書かれているわけです。
農村生活をめぐる自然や年中行事などが書いてあるのだから、ぼくが生まれてから、ずうっと見てきたもの、接してきた世界、それがこまかに書かれているわけです。
すべて自分が知っているとばかり思っていた世界が書かれている、この小説を読んで、ほんとうは、今まで何にも知らなかったということが、はっきりわかりました。
たとえば、田のあぜにそびえている榛の木(ハンノキ)ですね。
あのハンノキの芽が、どんなふうにふいてくるか、
どんなふうにのびて葉を茂らせるのか、
そのころになると、どんな鳥が飛んできて、どんな鳴き声をたてるか、
秋になって、葉っぱが落ちたあと、裸のハンノキにどんなふうに風が吹きつけてくるか、
そんことはまるきり知らなかったのです。
『土』を読んで、ハンノキの芽のふきかた、伸びかた、どんなふうに日が当たって、どんな色つやで、どんな鳥が来て、どんな鳴き方をして、どんなふうに葉っぱが染まって、どんなふうに西風が吹きつけて、どんなふうに粉雪が降ってくるか、――そんなときに、その下の田んぼでは、どんなことが行なわれているか、
馬耕(ばこう)をやって、苗代をつくって、田植えの時期が来て、草とりをして、夜になると蛙の声でいっぱいになり、ホタルが飛んできて、――それをこと細かに知ることができました。
そして、そこで耕している人たちの生活の中にまではいっていって、そして勘次という貧乏な小作人一家の生活の実態がどんなものか、
それを手にとるように教えられました。
貧乏というものが、人間の暮らしの中に、あんなにまでむざんに食い込んでいるものだということを、それまで知らなかった。
そればかりじゃない。
鶏がえさをあさっている様子などは、生まれたときから見ていたわけですが、ほんとうは知らなかった。
鶏にしろ、馬にしろ、彼らが生きてえさをあさったり、草を食っているときの様子はどんなか、そんなことは、ことごとくわかっていたつもりだったが、本当はよく見ていなかったことがわかったのです。」


臼井吉見は、自分の体験から、実に重要なことを述べています。
「それは知っている」と思っている。
そう思っていても、実は何も知っていないのだ。
ぼく自身もそう思います。
何歳になっても知ってると思いながら、知らないでいるのではないか。
人間みんなそうではないか。
お父さん、お母さんのことも、
きょうだいのことも、
友だちのことも、
自分が生きている世界のことも、
ほんとうのことは知らない。
けれど、知っていると思っている。
臼井吉見は、その小説を読んでから、ものを見る目が変わったと言います。


長塚節の『土』の原文は、昔の字で、昔のかなづかいで、今の中学生、高校生が読むのは難しいですが、
青年の時代に一度読んでみることをすすめます。
この小説の中で、お品が病気になって亡くなる場面が描かれています。
寒い真冬のことです。
亡くなるまで、お品は働きづくめでした。
田畑の仕事合間は、豆腐をてんびんぼうにかついで、村から村へ売りに行きました。
豆腐売りから帰ってから容態が悪くなりました。
そして幾日かたって、ついに息を引き取ります。
小説では死に至った病気の原因を、お品の死の後で、明かし始めます。


「夜はしんとしていた。
雨戸がかすかに動いて落ち葉の庭に走るのもさらさらと聞かれた。
お品の身体は足の方から冷たくなった。
お品が死んだということを意識した時に勘次もおつぎもみんなこらえた情が一時に激発した。
そうして遠慮をする余裕をもたない彼らは声を放って泣いた。
枕元のものは皆泣いた。
与吉はひとり死んだお品のそばに熟睡していた。
卯平はとりあえずお品の手を胸で合わせてやった。そうして機(はた)の道具の一つである「ひ」をふとんに乗せた。
猫が死人を越えて渡ると化けるといって、「ひ」は猫の防御であった。
「ひ」を乗せておけば猫は渡らないと信ぜられているのである。
夜はますますふけて、冷え切っていた。
家のうちには一塊のおきもたくわえてはなかった。
枕元にいた近所の人々は勘次とおつぎの泣き止むまでは身体を動かすこともできないでじっと冷たい手をふところに暖めていた。
おつぎはようやくかまどへ落葉をくべて茶をわかした。
みんなただぼっさりとして茶をすすった。」


おきというのは、炭火のことです。
真冬なのに、火の気も暖房もない家の中です。
おつぎと与吉はお品の子ども、卯平はお品の父親です。
お品は死の間際、最期に言った言葉がありました。
「後ろの田の畔(くろ)になあ、牛ぐみのとこでなあ」
きれぎれにいったお品の言葉を勘次はほぼ了解しました。
読者は謎の言葉のように思います。
その謎が小説を読むうちに明らかになります。
与吉を産んでから翌年に妊娠した子どもに関係したことなのです。
詳細を極めた生活描写です。
臼井吉見は、中学二年で読んで感銘を受けた、
ぼくはたぶん二十歳ごろだったと思いますが、ぼくもまた深く心に刻まれるものがありました。