ヒロシマ、ナガサキ <自分のやれること>


 穂高碌山美術館



児童館の朝、8時15分、
館にはテレビもラジオもない、市役所からは放送の声もない。
時計を見て、黙祷だけはした、いつもの年のように。
S先生も、早く来ていた小学四年生のハルカちゃんも一緒に、黙祷をした。
8時半、数人の子どもたちが来た。
「今日は何の日か知ってる?」
キョトン、
「知らないの? 今日は広島に原爆を落とされた日だよ。学校で教えてもらってない?」
キョトン。
ぼくは今、児童館で夏休みの子どもたちと共に暮らしている。
やってきた子どもたちの遊びの材料・道具や場の準備をしたり、一緒に遊んだり、安全を守ったりする仕事。


スタッフはS先生と二人。
「S先生、信州では、原爆について教えていないんですかねえ。」
「さあ、どうなんだろう。」
S先生は高校の教師だから、小中学校の実態がよく分からない。
「ぼくの大阪での教師人生を振り返ると、1970年代初めに、平和学習が興りましてね。
8月6日には、生徒会主催の『平和登校日』が行なわれましたよ。」
登校した生徒たちは、集会を開き、8時15分に、黙祷をささげた。
映画を観たり、被爆者の体験談を聞いたり、いくつもの学校で、学習が行なわれるようになった。
広島修学旅行を行う学校が出てきたのも、そのころからだった。


S先生と話をした。
「ぼくの住んでいた奈良のお寺では、
8月6日の朝、原爆投下の時間になると、鐘をついてくれていましたよ。」
亡くなった人々の鎮魂と平和祈願の鐘。
「そうですかあ。すごいですねえ。安曇野のお寺の鐘が、なればいいのですがねえ。
役所の有線・無線でも放送してくれたら、いいのですがねえ。」
そんな話をしていて、ひらめくものがあった。
そうだ、善光寺さんに手紙を書いてみよう。
善光寺さんは、これまでも世界宗教者の会議を先導し、世界平和を訴えてきたことを知っている。
世界平和と、核兵器廃絶、それを祈願して鐘をつけば、信濃の他の寺寺に伝播し、ヒロシマナガサキの日には、鐘の音が鳴り響くようになるかもしれない。
それは市民県民の意識にも強く訴えることになるだろう。


8月7日、ぼくの持っている『原爆写真集 ヒロシマ』(中国新聞社)をザックに入れて持って行った。
大判の写真集、それを遊びが中心の毎日の活動のなかに入れてみた。
小学5年生のユウヤは、悲惨な写真は見たくないと言う。
でもぼくは写真集を開いた。
見たくなければ見なくてもいいよ。
でも写真集を開くと、ユウヤの眼は写真に注がれている。
昼休みの前20分ほど、写真集のなかの焼け野が原の全貌や焼けただれた被爆者を見ながら、話をした。
子どもたちは動かない。
眼は写真に集中。
日ごろ、友だちと遊んで遊んで遊びながら、学び育っている子どもたちの真剣なまなざし。
オバマ大統領の、プラハ演説も話した。


善光寺さんに手紙を書いて出した。
今やれることがあるとしたら、何?
まずこれがやれた。