つながりから生まれる「鐘の鳴る丘コンサート」



一月の扇町コーラスの会の練習に、公民館へ出かけた。
練習が終わったところで、お誘いがあった。
有明高原寮で「鐘の鳴る丘」コンサートが開催されます、高原寮の少年たちと一緒に歌いませんか。
少年院の子どもたちとつくるコンサート、歌う市民が参加して少年たちを応援しましょう、という誘いだった。
昨年5月のアルプス公園での早春賦音楽祭に参加した「大地讃頌合唱団」が縁になって、また一つのつながりが生まれた。
そのときの早春賦音楽祭コーディネーターの西山さんからの呼びかけは、かつてないコンサートへの参加だった。
――「鐘の鳴る丘」コンサートに参加する人たちの練習は、穂高会館のホールで毎週土曜日の午後行ないます。


つながりの不思議、それをかみしめている。
遠くからあれはなんだろうと眺めていただけの、興味はあるがかかわるきっかけもなかった世界、
それが、突然眼の前に現れた。
つながり、つながって、予期しなかったそれがやってきた。


子どものころ、テレビのまだ無かった戦後の時代。子どもたちは夕方まで外で近所の子らと遊びほうけていた。
夕方5時過ぎになると、ぼくは家に走って帰った。耳を澄ますと、ラジオから大好きな歌が流れ出す。
「緑の丘の赤い屋根、とんがり帽子の時計台」
ハモンドオルガンの調べ、そうして厳金四郎の名朗読、戦災孤児の施設を舞台にした、連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」だ。


「鐘の鳴る丘」は、菊田一夫原作の戦災孤児たちの物語だった。
敗戦後、戦地から復員してきた主人公修平が見たものは親も家も失って街頭で靴磨きなどをして生きている浮浪児と呼ばれている戦災孤児たち、
修平の弟も孤児になっていた。
修平は子どもたちの安住の地を一緒に作ろうと実行に移す。
そうして信州に作られた少年の家、「鐘の鳴る丘」での共同生活は、孤児たちの心を解きほぐしていく。


ドラマのモデルとなった舞台が、安曇野の山手にある。
「鐘の鳴る丘」と呼ばれているそこは、いま少年の更生施設、合宿訓練の有明高原寮である。
映画にもなった「鐘の鳴る丘」の撮影に使われた時計台つきの建物もある。
小谷村の栂池高原スキー場は映画のロケ地の一つになり、そこには「鐘の鳴る丘ゲレンデ」の名称がつけられ、モニュメント「とんがり帽子の塔」が建っている。


穂高会館での練習に巌さんと出かけた。
練習会場には指導をしているコーディネーターの西山さんの元気な声が響いていた。
西山さんは、例の情熱溢れる言葉を投げかけてはピアノを弾き、合唱を引き出しておられる。
――今日は一番に小学生たちが練習しました。
昼ごはんを食べる暇もなかった、と西山さん。
――市民が参加して少年たちを応援する「鐘の鳴る丘」コンサートは今年30周年になります。今年は最後になります。来年からは形を変えることになります。高原寮に来るまでは、学校の音楽の時間もろくに歌など歌ったことのない子たちが、今一生懸命練習して歌っています。
「鐘の鳴る丘」コンサートに参加する市民の合唱ですが、皆さんの合唱は少年たちを励ますのです。今年初めて男声が加わりました。早春賦音楽祭に参加した「大地讃頌合唱団」の男性のみなさんです。コンサートには、安曇野市穂高地区の小学校、中学校の子どもたちも多数参加します。


女性の合唱団は、すでにいくつもの歌を練習していた。女声が40人ほど、男声が10人ほど。
男性は、「大地讃頌」と「手のひらをかざして」、あと数曲を一緒に歌う。
西山さんが言う。
――「大地讃頌」は究極の反戦歌です。地平線の彼方まで届くように、この平和の歌を歌いましょう。日本にも世界にもない、少年院の少年たちとの合唱です。


少年院「有明高原寮」は、運動会も地域に開かれ、地域の市民が応援してつくり、参加もしている。
フェンスのない少年院として認知されている。
少年たちはコンサートで市民の心に触れる。歌がこんなに感動を呼びさますものなのか、毎回少年たちの眼に涙があるという。


縁は不思議なもの、
つながっていくうちに、少年院の少年たちとの合唱祭にぼくはたどりついた。
発端は、風呂もトイレもない孝夫君の納屋住まいを何とかしようと動いたことだった。
そうして出会ったサッシ業の巌さんはたくさんサッシを提供してくれた。
そのサッシのお陰で孝夫君の住居を改善することができた。
すると巌さんが扇町コーラスの会への入会をぼくに誘った。
そうして入ったコーラスの会、そこへ早春賦音楽祭コーディネーター西山さんから呼びかけが来る。
男声3人扇町コーラスから大地讃頌合唱団へ参加。
そして「鐘の鳴る丘」コンサートへの招き。
遠くの別世界にあるかのように思っていた少年更正施設有明高原寮の少年たち、
彼らとの壮大な合唱の祭典がこの2月27日に行なわれる。
つながり、つながって、新たな出会いが生まれてくる感動を今ぼくは味わっている。