授業「情報科」が必要だ


   桑の木


新型インフルエンザの報道がこのところぴたっと収まった感じ。
小康状態が続いているらしい。
兵庫県知事が「安心宣言」を出している。
一時は報道が過熱化し、人びとの不安が高まったとき、
感染して帰国した高校生徒や、大量感染者発生の高校に、「けったいな」メールをおくったり電話をかけたりする、
異常な人間がいたようだ。
「責任をとれ」、
なんで感染したのかというわけだ。
「おまえらバイキンをまきちらすな」、
とでも言いたいのだ。
個人で発信できる道具を持っているから、顔の見えない凶器になる。
うっぷんのはけぐちになる獲物があると、攻撃する。


この種の人間は、自分のしていることが見えない。
自分が感染したらどうする、
どう責任をとる?


昨日、病院へ行く道中に、在日朝鮮人民族学校があった。
観察しながら行ったが、今回は特に異常は見られなかった。
しかし、外見だけでは分からない。
以前、やはり北朝鮮の問題で報道が過熱したとき、
民族学校やそこの児童生徒に矛先を向ける偏狭人間がいて、
警察がいやがらせや攻撃を防ぐために、学校の駐車場にほとぼりが冷めるまでパトカーを止めていたことがあった。
北朝鮮の政権のやったことをもって、在日の子ども達を傷つける。
東京・秋葉原事件とつながっている質の事件だ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、分離して考えられない人間がいる。


イラク戦争が勃発し、
庶民を救済しようと駆けつけた日本人の青年たちが人質にとられ、
さらに殺される人も出たとき、
被害者の青年たちを攻撃した報道や人間がいた。
「お前たちがいらんことをするからだ。
自分のやったことは自分で責任をとれ。」


こういう扇情的、偏狭な人間が報道機関にかかわっているとどうなる。
報道も火に油を注ぐような過激なものになる。
新聞に掲載される週刊誌の広告と、その記事を研究すれば、いろんなことが見えてくる。
書いた記者・編集者・「ジャーナリスト」の人間性や思考と感情が言葉ににじみでている。
売るために、買わせるために、読ませるために、
いかにも真実らしくよそおい、言葉を選んでいるのが見え見えの記事がある。
そういうのは品位のない、醜悪な言葉選びとなるから、どこか怪しさが匂ってくる。
TV,インターネット、ケイタイ、
洪水のように、あやまった知識や、あおる感情がおしよせる現代。


集団のなかでの人間は、
常識や共通感覚に反すると感じると、
対象になる人を「まちがっている」と考える。
そうして生まれてくる社会規範がある。
新型インフルエンザの報道が過熱した関西で、
マスクをしないで、電車の中で咳をしたら、みんなの非難の視線を感じたと言う人がいた。
それは互いを守るための考えに基づくものだが、
方向や分別を間違えれば、危険にもなる。


集団の中に強い力学が存在すると、一つの状態に統制される。
独裁政権の国では、体制の異分子は抑圧される。
そういうところでは集団の構成員が排除の先兵となる。
政治や思想の団体、宗教団体でも、統制が厳しくなると、構成員が異端を排除・抑圧する行動に出る。


そこで学校でやらねばならないこと、
事実とは何か、
真実とは何か、
その見分け方、
考え方、
感じ方、
多数に流されない自分の考え方、
それを考える。
報道記事をまな板にのせて考える学習が重要になる。
授業「社会と情報」、
授業「世の中と人間」、
というような授業。