小林多喜二の死を詠う四首

 荻原碌山作「労働者」



小林多喜二の『蟹工船』が読まれているという。
今の時代、若い人たちがこの本を買って読むなんて考えられなかった。
プロレタリア文学は遠く過去のものになってしまっていたから。


小林多喜二が拷問によって虐殺されたのは、昭和八年(1933)二月二十日だった。
歌人・矢代東村が、この日のことを歌に詠んでいる。
57577の音数にこだわらない、自由律短歌で、次のように歌った。


   逮捕、急死、急死、急死、急死、ああ、それが何を意味するかはいふまでもない。


   格闘したから 道へ倒れたから 捕縄をかけたから それで、四時間後の「心臓麻痺」が どうして起こった。


   屍体の 解剖まで拒絶され、病院といふ病院から みな拒絶され。


   告別式の 参列者まで総検束。その中には、ほんの一読者だった 花束を持って来た 女性さへ。


初めの歌。
「急死」を繰り返している。どの新聞も、報道のすべてが同じように「急死」としていたのだろう。
情報統制によって、真実は伝えられない。
だが、それが何を意味するか、わかる。
残虐な拷問によって、殺されたのだということが。
第二首。
急死の理由が、「格闘したから」だとか「道に倒れたから」だとか、
あまりにも見え見えの、ごまかしではないか。
遺体を見れば、それがいかにひどい拷問であったかが一目瞭然だったろう。
第三首。
しかし、どの病院も、遺体の解剖を拒絶した。
解剖して、検死すれば、原因を明らかにしなければならない。
触らぬ神にたたりなし、危ない橋は渡らない、
こうして民間機関も専制国家に追随していった。
第四首。
多喜二の告別式に来た人たちも警察はつかまえた。
多喜二の小説の読者であった、花束を持って来た女性さえも。


多喜二は、東京赤坂溜池付近で逮捕され、連行され、その夕刻に死亡した。
遺体解剖は、東京帝大病院、慶応病院、慈恵医大病院のいずれでも拒否された。
通夜や告別に集まった友人知人、読者は、手当たり次第に逮捕され、
二月二十三日の告別式には立会人が二人だけ認められ、
近親者だけで挙行された。
すべては拷問による死の事実を隠蔽するためだった。
それでも、告別式には花束や花かごがたくさん届けられ、
火葬にむかう沿道には、
多くの人びとが並んで哀悼の意を表したと、
『昭和万葉集 巻2』に書かれている。
中国の作家、魯迅は、
メッセージを送った。
「我々は知っている。
我々は固く同志小林の血路に沿って、
前進し団結するのだ」と。


矢代東村も、獄中の人となった。


   寒いんだ、どっちへ寄っても坐っても、コンクリートの壁は三尺とはなれない。


昭和大恐慌がおそっていた。
1929年、アメリカにおこった経済恐慌は世界に広がり、
ファシズムが台頭した。
日本もまた侵略戦争に活路を見出そうとした。



   このままに過ぐべきことか我が国のいづこを見ても行き詰まりたり
                     半田良平


   常々は戦争反対となへしが今朝応召に立ちゆきにけり
                      柳沢信