「人間みんなぼちぼちや」、小田実



 
       

昨年夏に亡くなった行動する作家・小田実を追悼する長時間のドキュメンタリーを見た。
NHKが3月に「ETV特集」で放送したものを録画しておいてあったものだ。
「人間みんなぼちぼちや。」
小田実が言っていた。
「ぼちぼち」という大阪弁、この場合「ちょぼちょぼ」とも言う。
「人間みんなちょぼちょぼや。」
「ぼちぼち行こか」と言えば、「ゆっくり行こうか」「少しずつ行こうか」となり、
「人間みんなぼちぼち(ちょぼちょぼ)」と言えば、「たいして変わりない、似たようなものだ」となる。
平凡にして非凡なる庶民の小田は、国民というより市民として生きた。
それを示すのが「人間みんなぼちぼち」、
偉い人なんかあらへん、だめな人なんかあらへん。だれでも善も悪も自分の中に持っている。弱さと強さと持っている。優しさといじわるを持っている。
病気にならない人間はいないし、
死なない人間はいないし、
被害者でもあるし、加害者でもある。
人間とはそういうもんだ。
だから、考える。
だから、行動する。
小田は、「人間ぼちぼち観」にもとづいて行動した。


小田、鶴見俊輔らと共に「ベトナムに平和を!市民連合ベ平連)」を立ち上げた吉川勇一は、昨年8月の小田の葬儀で、
こう弔辞を述べた。


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何よりも、一九六六年にあなたが提起された「被害者にして加害者、加害者になることによってまたも被害者になる」という主張は、一九四五年以降の日本の反戦平和運動の歴史のなかで画期的なものでした。
戦争の加害者としての自覚は、こうして、以後、日本の運動のなかでの中心的な課題の一つとなりえたのでした。

幾多の運動のなかで、たとえばイラク反戦の運動の中で、あなたのように、運動の最先頭の修羅場に身を置いて、そこで有名、無名の区別なく、ともに一人の個人、一人の市民として平等に行動を続けてゆく、そういう人を私は、残念ながら知りません。

一九六八年、佐世保米原子力空母エンタープライズが入港しようとしているとき、あなたは私とともに二人だけで佐世保へ向いました。
私たちは小さな木造小船を借りて、エンタープライズの周りを何度も回りました。
その対比は、あなた自身、まるで戯画のようだったと言っていましたね。でもあなたは、イントレピッドの四人に続け、ベトナム攻撃から手を引けと、英語のアピールをし続けました。甲板には、耳を傾ける兵士が次第に増えてきましたね。夜は、佐世保のバー街で、上陸してきた米兵に、英文のチラシを撒きました。
翌日は、二人だけでデモをしようと、歩道の上であなたは立て看板を書き始めました。あまりに下手くそな字なので、私が手を入れました。その間にも、「小田さんですか、私も加わります」という未知の人びとがつぎつぎと現われ、歩いているうちに、その隊列は300人にもなり、その晩、すぐにその人びとによって「佐世保ベ平連」がつくられたのでした。

あなたは、「誰でも入れるデモです。一緒に歩きましょう。エンタープライズに抗議して」という看板を掲げ、見知らぬ人びととつぎつぎと腕を組みました。既存の運動と異なる市民運動のあり方の典型を見る思いでした。

あなたの小説『冷え者』が、運動のなかで問題になったことがありました。被差別部落に対する差別小説だとして、糾弾の対象とされ、発行中の『小田実全仕事』の中から削除するよう要求されたのでした。そのときの小田さんの確固とした姿勢も私は決して忘れられません。
糾弾の対象とされた途端、作品集の中からそれを削って口を閉ざしてしまう作家も少なくないなかで、あなたは決してそういう態度をとらず、批判者の文章を共に掲載することで、その小説を出版し、世の討論に資するようにしよう、と提案したのでしたね。なんと、そうなった途端に、批判者は姿を消してしまい、あなたはやむを得ず、解放同盟員であり、作家である土方鉄さんに批評文を依頼して、それを含めた出版を実現したのでした。

阪神淡路大震災のあと、あなたが、自民党から共産党まで、議員をつぎつぎと回って説得に努め、私有財産を国家は補償しないと言い張っていた政府に対し、市民=議員立法を対置し、まだ十分ではないものの、災害犠牲者を公的に支援する法律を実現させました。

私たちの手でスウェーデンに送り出されたかつての脱走兵の一人、マーク・シャピロさんからは、「巨人のように偉大な人間、小田さんへの尊敬と哀悼の念のささやかなしるしとして、葬儀に花をお送りした。小田さんはこの世界のために実に大きな仕事をなされた。小田さんとベ平連の皆さんにどれほどの恩義を感じているか、言葉に尽くせない」という趣旨の便りが来ていることもお知らせします。


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小田実鶴見俊輔の生き方は、ぼくにも影響を与えた。
小田の代表作である1961年出版の『何でも見てやろう』を読んで感動し、それから5年後、ぼくもソビエトからヨーロッパに入り、東欧、中近東を経てインドまでの旅をした。
鶴見の言葉に感銘して、共同体にも入った。そこにはかつて村の歴史として、ベトナム戦争から脱走したアメリカ兵を村にかくまったことがあった。


小田が語ったこと、
「力は正義なり」の世界への異議。
テロ行為はそこに根をおいてなされる。
日本はこの世界のありかたを変えることに力をつくせ。
日本は、過去の反省に立って、暴力、武力を用いないことを原理とした「平和憲法」をもった。
平和は、暴力、殺戮、戦争によっては決して達成されない。
今、必要なことは、「平和憲法」の原理に基づいて、日本が行動を起こすことだ。
日本の首相は、ただちに「平和憲法」をもつ国の首相として、イスラエルパレスチナの和平実現に乗り出せ。
この努力はまちがいなく世界の平和樹立、テロ根絶の重要な一歩だ。
それは世界のありかたを変える。


小田は、良心的軍事拒否国家日本実現の会代表だった。