頻発する大災害 <小田実「生きる術としての哲学」>


 小田 実(1932年〜2007年)は、作家であり政治運動家であった。
 彼は1961年に、世界を放浪してきた旅行体験記『何でも見てやろう』を出版し、多くの読者を仰天させ、書はベストセラーになった。小田は、べトナム戦争のとき、市民運動ベトナムに平和を 市民連合」の柱になり、晩年、「九条の会」の呼びかけ人の一人となった。
 ほとんど毎年のように日本各地で大災害が起こっている。大地震、大津波原子力発電所爆発、巨大台風、集中豪雨、猛暑‥‥、小田実は西宮に住んでいて、阪神淡路大震災に遭遇した。そこで暴露された政治の実態に小田は怒り心頭に発した。
 小田実「生きる術としての哲学 小田実最後の講義」(岩波書店)のなかでこんなことを語っている。

 ◆ ハワード・ジンという歴史家がいる。彼は「支配される側」の視点で、アメリカの歴史を書いた。ジンはベトナム戦争反対運動に参加し、イラク攻撃に反対した。
 ジンは自伝を書いた。そこにこんなくだりがある。

 ジンは第二次世界大戦のときアメリカ軍の爆撃手になり、ヨーロッパ中を爆撃して回った。戦争が終わりジンは考えた。自分はいったい何をしたのか。戦争が終わるわずか三週間前に、ボルドー近くにあるロワイヤンというフランスの避暑地を自分は爆撃した。爆撃命令は、ドイツ軍が集積しているからという理由だった。その結果、ドイツ兵とともにフランス市民も大量に殺された。上官は何のために爆撃命令を出したのか、それは最後の功績をあげ、勲章をもらいたかったからだった。爆撃で使ったのはナパーム弾だった。このナパーム弾は、大阪大空襲でも使われ、その後、朝鮮戦争でも落とし、さらにベトナム戦争で大量に使われた。
 いったい戦争は何のためにあるのか。
 煩悶の末、ジンは猛烈な反戦運動家に変わる。黒人解放運動に参加し、ベトナム戦争の時は、ハノイに抑留されているアメリカ兵捕虜の引き取りに行った。そのハノイでジンはアメリカ軍による北爆の下に身をさらす。連日聞いたこともないすさまじい爆発音がとどろき、ジンは恐怖を感じた。第二次世界大戦のとき、自分は爆撃機B17に乗ってさんざんナパーム弾を落とした。そのとき地上で何が起こっていたか、自分はその事実を知らなかった、と痛感する。 

 小田実はジンの体験を読んで考える。オレは「歴戦の弱者」だ。「歴戦の弱者」の立場で考えることが大切なのだ。政治も経済も「歴戦の弱者」に徹して考えるのだ。
 阪神淡路大震災は日本の虚飾をすべてはがしてしまった。何が文化都市だ。何が大国だ。何が先進国だ。これは天災ではない。人災だ。地域開発という大義名分でやってきた乱開発の結果そのものだ。土建屋と結託してやってきた談合政治の結末だ。そしてツケは市民に回ってきた。
 人口四十万人の金持ち都市、西宮市が、災害対策費は四千五百万円、非常用の食糧も毛布も、備蓄ゼロ。断水は災害後、数か月続いた。全国から集まった義捐金が被災者に配られたが、一世帯に届いたのは二十万円。公的援助はなし。小田は、「被災地からの緊急要求声明」を出し、公的資金の援助を求めた。しかし行政は公的援助の法律が無いという。そこで小田たちは法案をつくり、「市民・議員立法」として議会に上程した。東京で集会を開き、街頭演説を繰り広げ、国会前に座り込み、デモをした。合言葉は「人間の国へ」だった。だが、多数派の議員、政党は、法案を審議せずに会期終了とともに廃案に持ち込んだ。その間も、被災者の中から死者が出ていた。困窮の極に達している被災者が必死に求める公的援助を行なわない行政。小田はその死を「難死」と呼んだ。二度も法案は廃案にされ、三度目やっと法案が成立したが、それは小田たち市民が最初に求めた内容を弱体化させたものだった。
 小田は市民によって復興を成し遂げようと運動を開始する。行政は独自に復興計画を立てていた。道路の拡張新設、街の高層化、巨大化。その行政案に対して、市民が考えた社会の基本は、「安心して歩ける街、歩いて用がたせる街」だった。歴史的にも世界の街はそうして形成されてきた。クルマを使わないと用が足せない街は街ではない。
 神戸市東灘区森南町の住民は自らで復興計画を立てた。「森南地区復興 まちづくり憲章(案)」はこう述べた。
 1、私たちのまちづくりは、「震災前のまちの記憶を大切にするまちづくり」を原則にして進めます。ガレキ化したまちには私たちの生活の記憶が埋まっている。過去を捨て去る都市計画ではなく、震災前の生活と亡くなった八十余人の記憶を大切にしながら、うるわしいまちの復興をめざします。
 2、震災の体験を生かす防災のまちづくりをします。私たちのまちがどのような壊れ方をしたのか、どのような道を通って逃げたのか、体験を生かして安全な住宅を確保し、災害に対して耐えられるまちづくりをすすめます。」
 文化と歴史が香り、ともに生きる住民の暮らしが心をいやす、人間の生きるまちづくりだった。しかし、住民案は採用されることはなかった。「住民の意見を聞く」というのは形ばかり。
 小田実が「生きる術としての哲学」を書いてから6年後、東日本大震災が日本を襲った。そして原発が爆発した。被災者の困苦は今も続く。
 
 この夏から秋にかけて、西日本集中豪雨、巨大台風、北海道大地震とつづく。被災地住民の悲嘆と絶望、何を思い何を考え、希望をどこに見出すべきや。