桜を植えた人


「桜の樹を伐(き)るか。」
その意見から総会の場はややこしい話になった。
「この話が出ると思ったから、桜の写真をそこに吊るしただ。」
見事な満開の桜並木、そのポスター大の写真が壁にかかっている。
「この地区の桜並木はこのように安曇野の名所のひとつになっているだ。」
桜は、農業水路のほとりに数十本、南から北に一列に並び、
背景に雪の常念岳、横通岳ががそびえる。
30年以上の月日は、ソメイヨシノを大木に育てた。
「あの桜はわたしも植えただ。」
その桜がやっかいな問題になっている。
「問題は、桜を見に来て、ゴミを捨てていく人がいるだ。」
「大きくなりすぎた桜が原因で、隣の田んぼの収獲が減っているという苦情も出ているだ。」
「わたしも桜の苗を植えたひとりだから、伸びすぎて田んぼに影を落とす枝を払ったりしてきたんだが。」
「清掃したり、草刈りしたりもしてきただがね。」
「市は何もせずだよ。」
「それなら伐ってしまうか、ということだ。」
桜を伐る? それはまた不穏当な意見だ。
どうして伐るという話になるのか。
桜のピンチ。
過激になる理由が分からない。
ピンチをもたらしたのは人間、桜ではないでっしゃろ。
人間の頭がピンチをつくっている。
伐る話、桜はそれをつゆ知らず、今ひっそりと開花に向けて花芽をふくらませている。
「桜の保存会をつくるのはどうですか。」
おうおう、それ建設的な意見ですやんか。
「まあ、今年1年かけて考えましょう。」
区長がまとめた。
30年前に、桜を植えた人たちの発言は、
ある人はぎごちなく、
ある人は歯切れ悪く、
ある人は極端に走り、
そして結論は先延ばしをするしかない。
植えた人たちの心の葛藤を物語っている。


「桜を伐ってしまえ!」
そういう意見が出てくるのは、なぜだろう。
桜を植えた人たちから、「伐る」という意見が出てきている。
ほんとうに伐りたいからそう言っているとは思えない。
発言者の顔に、いささかの困惑の色がある。
桜を守りたい、しかし、今問題はややこしい。
それが過激な破壊的な発言に現れてきている。
ホンネはみんな桜を守りたいのだが。


村の住民自治会総会。
新旧役員が入れ替わり、
前年度の活動報告と決算報告、次年度の計画と予算、
それらの審議がすんで、総会も終わりに近づいたときに、桜問題が出たのだ。


数日後、頭にふうっと浮かんだアイデアがあった。
桜保存会をつくってはどうかという意見を出したMさんから意見を聞いてみよう。
それから「伐れ」と「守れ」の意見を聴取して、
それを編集した通信をつくり、
そこに潜む問題を浮き上がらせてみよう。
そうすれば、問題解決のきっかけになるかもしれない。
今年の総会の出席者は少なかった。
30人ぐらいだったか。
170戸の地域で、多くの人は、傍観者意識が強い。
通信は、地域の問題を考える材料にしてもらえるかもしれない。
地域を自分に引き寄せる通信をつくってみよう。
1号は「桜特集」、2号は「ゴミ問題」、3号は「堰掃除」、テーマはいくらでもある。


Mさんを訪問した。
Mさんが教えてくれたのは、桜を植えた中心人物はKさんということだった。
地域の長老だ。
Kさんは桜を植えたことで、今家族がたいへんだよ、と意味深長なことを言う。
Mさんは、ぼくの意見に賛成してくれた。
問題を文章にまとめることも賛成してくれた。
じゃあ、Kさんに会ってみます。
一度Kさんの田んぼのわき道で話を聞いたことがありますから。 


Kさんの家は大きな屋敷森だ。
先先代は地主だった。
いまKさんは80代半ば、手も足も不自由になり、重い病気の手術もした。
歩行を助ける手押し車を道端におき、Kさんは田んぼのあぜに腰をおろして休んでいた。
「桜はきっちまうだ。植えなきゃよかった。」
30年ほど前、Kさんがリーダーになって、村から苗をもらい、8人に植えてもらった。
だが、植えなければよかった、と言う。
「そんなことないですよ。桜は地域の宝ですよ。」
話すうちに、いろいろ出てきた。
「あの桜のために、この田、土地の価格も下がっているだ。日陰になる。」
「花が咲いているときだけ、見に来るだ。あとは一年中、やっかいもんだ。
わしが植えようと言い出して、若いもんに植えてもらっただ。
植えなきゃ、よかった。」
何もかもむなしい結果となったと、Kさんの表情は寂しげだ。
「生きていてもしかたがないね。目的もない。何もいいことない。」
早く死んだほうがいいと、おっしゃる。
話は、戦後の農地改革で、40町歩の田んぼが無くなったことにまで及んだ。
そして8年前の胸の手術のこと。
さびしい。
おもしろくない。
楽しいことがない。
「いいことないかね?」
Kさんの力の無い眼に寂寞と孤独の色がただよう。
「また来ますよ。また話を聞かせてください。」
「うん、また来てくれよ。
苦労して外から移って来た人のほうが心が分かるのう。」


それからまた3人の人を訪れて、話を聞いている。
桜を植えた人たち、どんな考えで植えたか。
掃除をし、世話をしてくれた人たち、どんな作業状態だったか、心境だったか。
太陽や水などの力を得、自分の力で育ってきた桜の樹、
それらに心が及ばない人たちが、
桜の開花のときだけやってきて、楽しんで帰っていく。
心無い人は、桜の下や田んぼにゴミを投げ捨てていく。
米の収獲に影響していることなど想像もつかない。


桜を守るのは、地元民しかない。
これまでの尽力や世話を知ること、
桜の価値を考えること、
植えた人、世話した人たちがいてこそ、花見もできる。
そのことへの感謝の心を顕すこと、
それを始めることだと、ぼくは今思っている。


信州の桜の開花はいつだろう。
開花を愛で、想像力を働かしてほしい。
今年、桜並木に、できれば「告知」のしるしの何かをしたい。
問題の解決の糸口になればと思う。