山形県、『山びこ学校』が閉校

michimasa19372009-03-30





3月22日に、山形県の山元中学校が閉校した、というニュースを読んだ。
かつての、あの「山びこ学校」、無着成恭さんと43人の教え子がつづった文集の舞台が消えた。
今年の卒業生は、3人だった。
閉校式には、卒業生、村人ら300人が出席して、別れを惜しんだという。
無着成恭さんが教え育てた43人の子どもたちの作文集『山びこ学校』は、1948年につくられた。
敗戦後3年目である。
『山びこ学校』に、「私たちが大きくなったとき」と題する作文を書いて、将来の農村の発展をつづった横戸惣重さん(73)は、
「こんな風になるとは思っていなかった。なんでこんなに寂しい地区になったのか。」と寂しそうだったとニュースは報じる。
閉校式の出席者に無着成恭さんの名前がない。
「山びこ学校」に載せられた、卒業生代表で答辞を読んだ佐藤藤三郎の名前もない。
『山びこ学校・山形県山元村中学校生徒の生活記録』は、1951年 に出版されベストセラーとなった。
そして、1952年、今井正監督によって映画化された。
だが、村の恥を世間にさらしたと批判された無着は村から追放された。
山元小中学校で6年間勤務した無着は、人間教育として生活綴り方運動に取り組み、その後さらに国語教育の科学的研究と実践に大きな足跡を残した。
1960年代前半、同校には150人を超える生徒がいたが、2000年以降は、10数人から数人に減っていた。
併設の小学校は2005年度で閉校になった。


無着さんの教え子、佐藤藤三郎は、今73歳のはず。
彼は、何冊もの著作を世に送り出しているが、一生を農業にかけた。
佐藤藤三郎は、「どろんこの青春 ―農村・狸森から若者へ」(ポプラ社 1979)のなかに書いている。


「わたしたちの少年時代は、まさに『働くこと』しかなかった。勉強の『べ』の言葉すら、親の側から言われたことはない。
むしろ、勉強などするな、するなといわれどうしだったといっていい。」


そしてほとんど本も読まずに働きつづけ、大人になってから、少年時代に満たされなかった大きな穴をうずめようと努めた。
その体験から、本当の学力の基礎は読書力だと説いている。
藤三郎は、山元中学校に入学して、師範学校を出てやってきた無着先生に出会った。
入学式で、無着先生はあいさつをした。
それを藤三郎の同級生、川合義憲が作文に書いている。
それはあまりにも「へんてこりんな、聞いたこともないあいさつだった」。


無着先生は子どもたちにこんな話をした。


「みなさんが利こう者になろうとか、もの知りになろうとか、頭がよくなるためとか、
試験の点数がよくなろうとして学校に来ているとすれば大馬鹿者です。
学校は物知りをつくるため、あるいは立派な人間をつくるためになどといわなければならぬほど難しいところではなくて、
いつどんなことが起こっても、それを正しく理解できる目と耳とを養い、そして誰が見ても理屈に合った解決ができるように勉強しあうところなのです。
とにかく、ゆかいにたのしくくらしましょう。」


「ぼくはよく分からないがなんだか愉快になり笑ってしまいました。
するとみんなも笑いました。
この先生がぼくたちの先生だったのです。
『教科書なんか無いほうがこっつらええ』と
先生は毎日、新聞の話しをしたり、本を読んでくれたり、また面白い話を聞かせてくれます。
今日も、『地球はまるい』といってみんなを笑わせました。
しかし、先生は笑わずにじいっとみんなの顔を見ています。
いつもそうです。
コペルニクスとかいう人の話をして聞かせました。
ぼくは毎日学校に来るのがゆかいでたまりません。
それにいちばんうれしいことは、先生が、
『みんなが卒業するまで受け持ちでいよう』
といったことでした。
『だけどみんながいやだといえば、しかたがないからどこかへ首のすげかえをしよう』といって笑いました。
ぼくは、先生がかわるのはもうこりごりだといったら、みんなわいわいさんせいしました。」


山元小学校のときは、先生がいないために、何度も、担任が代わっていたのだ。
藤三郎は、戦前の遠藤友介という先生の一文を紹介している。


「ここへ きたのは おれのこころではない。
支配された おれは。
よわい よわい おれは。
ひとには いえぬ。
おのれを いわぬ。
おれの ほんとうを だれが わかるか。
とうとうきた。
山にきた。
山は まんさくの はなだった。」


「まちがいなくこれは、私の住む村のことをうたったものだ」、と藤三郎は書いた。
「つまり、山の村の学校に来る先生は、『ここへきたのはおれのこころではない』のである。
だから、『みんなが卒業するまで受持ちでいよう』などと先生の方から言われてしまったら、
子ども心に感激にひたってしまうのだった。
なにしろ、一年間に4人もの先生がかわったことがある、わたしたちなのだから。」


学校は明治33年に建てられたかやぶきの校舎だった。
黒板の下の腰板のサンに釘が打たれ、雑誌がずらりとさげられた。
「少年文章」「子どもペン」「少年少女ペン」「銀河」「子供の村」「少年少女の広場」「赤とんぼ」、
無着先生が購読していた雑誌だったらしい。
本の面白さを分からせようとする努力が、学校全体に広がっていった。


「山びこ学校」がどんな学校だったか、知れば知るほどおもしろい。
今とは比較にならない、貧しい時代だった。
戦争が終わって間もないころ、教師自体が軍国主義に翻弄されて、敗戦を迎えた時代、
そんな時代に、無着のような先生が出たということの驚異と不思議、
文集『山びこ学校』は、教師の必読書である。


3月30日、今日の新聞(A紙)に、宮川という元小学校教師の投書が載っていた。
1948年春、札幌近郊の小さな小学校の教壇に立った宮川さんは、
戦後教育の理論、実践に乏しく四苦八苦していた。
そのときに、刊行された『山びこ学校』に出会った。



      雪    石井敏雄

   雪がコンコン降る。
   人間は
   その下で暮らしているのです。
            


この詩で始まる『山びこ学校』、
家や村の暮らし、学校生活を見つめた子どもたちの作文に宮川さんは感動し、
「地べた」の視点から子どもの教育を考える大切さを教えられたという。
宮川さんの教師人生は、作文教育だった。
宮川さんも無着成恭と同じ時代を生きた。
宮川さんは、退職して16年後の2006年に、山元中学校を訪れたとき、
校舎は近代的な装いで、かつての姿はもうそこにはなかった。
そして過疎化が襲う。
2009年、山元中学校は、ついに閉校となった。


だが、『山びこ学校』は、日本の教育の歴史の中に残る。
汲めども尽きぬ、清冽な泉のごとく。