挫折と希望

michimasa19372009-03-28



一月ぶりにランと散歩した。
今朝は氷点下2.5度、細かい飛雪に耳がこごえた。
太陽が上がると、日中の気温は上昇した。
庭に、ジョウビタキが来ている。
今年初めて、ヒバリが空中でさえずっているのを見上げた。
揚げヒバリ。
スイセンの開花がはじまった。
匂いスミレの花が香っている。
コブシの花ふくらむ。
午後、ランを連れて、洋子とフキノトウを田の畦に採りに行った。
フキノトウ味噌を温かいご飯に乗せて食べると、早春の香りが口中に広がる。
夜は、洋子がフキノトウをてんぷらにしてくれた。
少しの苦味がおいしい。


今日は友人Fさんから送られてきた、長い文章を読んだ。
友人というよりも元同志とも言うべき人だが、やはり今は友人というのがふさわしい。
彼とは過去の一時代を共に生きた。
そのとき彼はぼくよりも先人だった。


彼の論は、理解できないところもあるが、
多く共鳴するところがある。
自分の人生とは何だったか、
自分の人生をゆだねたあの世界とは何だったか。
理想をもち、志を抱き、
希望があった。
敗戦日本に生まれた運動の出発点は、戦争のない世界、飢え・貧困のない世界をつくることにあった。
その後、実践は、環境、教育、農林業へと発展した。


送られてきた論文は、Fさんらしい文章だ。
格調のある硬派の文章。
彼はこの十年小説を書いてきた。


彼の文章の一部。


     
『過去は現在を支配するが、未来も同じく現在を支配する。
未来の不特定性が現在を不幸にするなら、その未来は怪しいと見た方がノーマルだ。
Y氏が幻視した世界こそ、この運動の真目的であったはずだ。
しかし、その想像上のピークをさらに高めることはできなかったばかりか、到達すらできなかった。
それに骨格と肉付けを与えるために粉骨砕身してきたつもりだったが、
ピークを高めたのは産業であり、組織であり、員数であり、派生的なものばかりだった。
私は、めいっぱいの労働の地獄を見ていなかったとはいえない。
この労働は理想に向かっての甲斐ある労働なのか。
満たされていないもの、それを何というのか。
精神というのか、魂というのか。
何かのためにフルに生きていたが、自分のためではない。
いやそれでもかまわなかったのだ。その献身の充実は確かに何ものにも換えがたい。
だがそのことが真の幸福であるかのようにいう人々がいると、とたんにどこかなんかヘンだという思いが走る。
そこからはいつも堂々巡りで、いつの間にか睡魔に圧倒されていた。


今の自壊の惨状に鑑みれば、せめて行き詰まる寸前の一手、
もっと言えばいささかなりとも先取りの一手が少しずつでも、
さらに言えばメンバー全員の現実の希望に沿って実践されていたなら、と夢は果てしない。
周知を寄せた百花斉放の中では、玉石混交はあれど、さらに豊かな構想が登場しえたのではないか。


そう、私はずっと胸裏深く、普通人、市井の一庶民たることに憧れていたようだ。
ここ数年、私は貧しく、生活不如意で、老後の不安を抱えながらではあるが、それに近い暮らしを生き延びてきた。
誰に顧慮することなく、自己一個の乏しい稼ぎでも何とか成り立たせうる自前の生活スタイルは、なによりも愛おしいものだった。
そういう境遇下で「生活を楽しむ」とはどういうことか、あれこれ味得できたような気がする。


私はマンションの住民からいろんなものを贈られる見返りに、冬場、浜に流れてくるワカメを拾い、湯がいて贈っている。
すると急速に人間間の心情的距離が近くなるのだ。
それがうれしくなってまた贈りたくなる。
そうなるとお返し、見返りの観念は、かなり薄れているのを感じる。
ただ贈りたいのだ。
しかし誰でもいいとは思えない。あくまでも個別の想像が働く範囲なのだ。
このささやかな経験から想うのだが、数家族+α程度の、ミニ共同体のようなものなら、私はずっと関心を寄せるだろう。
いうまでもなく、そのために理念というものが一義となる生き方になるなら、お呼びじゃない。
もちろんやむをえざる親愛の情にほだされての人間の共同については、これを否定する気は毛頭ない。
しかしそれを意識的につくろうとは思わぬ。
そのような心情が自然発生的に内発する地点に出会わないかぎり、それはどこかウソになる。
 

ともあれこの運動は挫折した。
路線の軌道修正のチャンスを失い、個々の方法論がまずかったということもあるが、
歴史の時流が満ち、人が集い寄った千載一遇の機会を逸した。
日本の民衆社会運動はいつの時代でも、求められる課題を実現可能ピーク寸前でほとんど逸してきた。
またその後は、往時のピークを回復しえたという記憶も乏しい。
いまだ薄命の未来に対し、限られた構想、人材、資材をもってしか「現在」に直面できない。
それが歴史の宿命ということなのだろうか。』


Fさんの文章の第1部を読んだ。
学生運動の挫折から希望へと連なった生活と運動は、
彼の言うとおり、
「歴史の時流が満ち、人が集い寄った、千載一遇の機会を逸した。」
またも挫折となった。


これから第2部を読む。
ぼくも何かを語らねばならないと思いながら、これまで取り付く島がない思いがして、
何も書いてはこなかった。


国家が歩んできた道にも、そこに沿って民衆が歩んできた道にも、
権力の問題が絡んでいる。
道を誤り、大きな亀裂を生み、理想は幻となり、病んでいく。
立ち上げようとした塔は、バベルの塔
大きな集団も小さな集団も、破綻していく要因に共通のものがある。